「蔵出し」コーナー企画第一弾の最後に登場してもらうのは、西郷隆盛・大久保利通とともに「維新の三傑」の一人に数えられる木戸孝允(きど・たかよし)です。「桂小五郎」と称した幕末期には尊王攘夷派の志士として奔走。のちに長州藩のリーダーへと成長し、明治新政府の樹立に大きく貢献しました。
ちなみにこれは私の個人的な意見ですが、幕末の人物として、木戸は土方歳三に匹敵するイケメンではないかと思っています。とくに女性の皆さんにお聞きしますが、いかが思われますか? それではいつものように、木戸が手紙に何と書いたのか、生の声を聞いてみましょう。 別紙に申し上げる二人は小郡の者で、大いに洋学研究の志を抱き、将来は外国へ行きたいとの希望もあるようです。 要するに木戸は、西洋の新知識を学びたいという小郡(おごおり)(山口市)出身の前途有望な若者を、容赦なく鍛えてほしいと天野に頼んでいるのです。 手紙を受け取った天野清三郎は松下村塾に学び、一時は尊攘運動に参加しましたが、禁門の変を境に勉学に励むようになりました。慶応元年(1865)藩が三田尻(防府市)に海軍学校を創設すると、英学を学ぶため入学し、やがてその教官となりました。おそらく、木戸は吉田松陰系のネットワークを頼りに、天野に若者の指導を託したのだろうと想像できます。 明治維新、ひいては日本の近代化に主導的な役割を果たした長州藩。じつはその背後では、木戸のような開明的なリーダーのもとで英学、すなわち英語による西洋学問体系の導入を他藩に先がけて行っていたのです。つまり、次世代を担う若者たちを育てるという「人づくり」に長けた長州藩の気風を、この手紙でも読み取ることが可能なわけです。 ちなみに天野は、慶応3年(1867)に藩命により米国ボストンに留学し、のちに英国グラスゴーへ渡って近代的造船学を修得。明治維新後に帰国して渡辺蒿蔵(こうぞう)と名を改め、長崎造船局の初代局長をつとめました。 「長州ファイブ」しかり、幕末・明治の混迷の時代に、長州藩は100名ほどの人員を海外に派遣したといわれますが、よくもまあこれだけの財源があったものと感心するのは、きっと私だけではないでしょう(笑)。 【木戸孝允略伝】 天保4年~明治10年(1833~1877) 幕末の志士、明治時代の政治家。もと桂小五郎と称し、明倫館で吉田松陰に学び、尊王攘夷運動に奔走した。薩長同盟を結ぶなど長州藩の指導者として活躍。明治初年、版籍奉還・廃藩置県を推進して中央集権国家の樹立に尽力した。明治4年(1871)岩倉使節団の全権副使として欧米を視察。台湾出兵に反対して辞職したが、大阪会議後に政府に復帰し、西南戦争中に病死した。 (写真は『松菊木戸公伝』より) (道迫)
by hagihaku
| 2006-09-20 19:27
| 常設展示室より
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