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「書簡でたどる松陰の生涯」①―嘉永4年3月21日付、父・叔父・兄あて―
つい先日、めでたく開館2周年を迎えたわが萩博!

ということで、以前から何回か、萩学展示室の「人を育むまち」ゾーンにおける展示更新についてお知らせしてきましたが、今回を1回目として、2ヵ月にいっぺんのペースで展示替えを行っている3つのコーナーについてご紹介させていただこうというわけです。

しかも、以前は1回の記事で「書簡でたどる松陰の生涯」「松下村塾の人びと」「新しい時代と萩の人びと」の3コーナーを紹介していましたが、それぞれを詳しい内容のものとするため、全て独立の記事といたします。

さて「書簡でたどる松陰の生涯」のコーナーでは、嘉永4年(1851)3月21日、松陰が父の杉百合之助(ゆりのすけ)・叔父の玉木文之進・兄の杉梅太郎に送った手紙を展示しています(写真をクリックすると少し拡大できます)。
「書簡でたどる松陰の生涯」①―嘉永4年3月21日付、父・叔父・兄あて―_b0076096_11193778.jpg
松陰はこの時、数えで22歳。江戸で兵学修業するよう藩命を受け、藩主毛利敬親(たかちか)の参勤交代に従い、初めて江戸へ旅する途中、伏見から萩の父らに道中の報告をしたものです。

それでは、家族に送った手紙らしい一節を、松陰自身の言葉にみてみましょう(読み下しに改めています)。
「矩方儀道中異なり無く、当駅着仕り候。初五発程已来(いらい)足痛も余り病み申さず、竹笨車(ちくほんしゃ)に乗り候事僅(わず)かに両度のみに御座候」
江戸時代の人はいろいろ呼び方があって複雑ですが、「矩方」(のりかた)というのは松陰の諱(いみな)です。松陰は父らに「道中無事で伏見駅に着きました。3月5日に萩を出発してからは足も痛まず、竹笨車(竹でつくった粗雑な輿)に乗ったのはわずか2回でございます」と伝えているのです。

また
「中谷翁起居飲食の微に至る迄、毎々配意仕り呉れ候故、大いに仕合せ申し候」
とも書いており、藩士の中谷忠兵衛に「冷飯」(ひやめし)、すなわち食客(しょっかく)という立場で世話になりながら進む旅であったことがわかります。

しかもこの時は正式な参勤交代の随員でなく、つねに藩主の行列に先んずる形をとっていました。その関係もあって、松陰は藩主の無事の到着を確認することができたようで、手紙の冒頭には「殿様益(ますます)御機嫌好(よ)く」という一語を添えています。

そのほかには、藩主が参勤交代への途上、一時病気になったことや、湊川(みなとがわ)の楠公墓(なんこうぼ=楠木正成の墓)を参拝したこと、明石海峡の砲台の様子を視察したことなども伝えています。

躍動感に満ちた、若さあふれんばかりの松陰の手紙です。

(道迫)
by hagihaku | 2006-11-17 11:23 | 常設展示室より
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