「維新の三傑」として著名な木戸孝允。日本史の教科書では五箇条の御誓文とか、廃藩置県とかで必ず習いますよねぇ。
木戸は、日本が近代国家に新しく生まれ変わろうとしている、まさにその現場に立ち会った人なのです。 ところがこの木戸孝允。幕末好きの人なら知らないはずがない、もう一つ有名な名前を使っていました。そう、よく「逃げの小五郎」とかいわれる、桂小五郎です(筆者個人は、「逃げの~」というコピーについてはあまり好きではありませんが)。 今回の「新しい時代と萩の人びと」では、木戸孝允時代でなく、桂小五郎時代の生史料を展示しています。写真では巻物であることが確認できませんが、桂が長州藩士寺島忠三郎(てらしま・ちゅうざぶろう)に送った手紙が10通ほど貼りこまれたとても貴重な書簡集です。 この手紙は文久3年(1863)8月13日、桂が寺島に送ったものです。この時は二人とも京都に滞在中で、桂は数えで31歳、寺島は21歳でした。吉田松陰系のネットワークでいえば先輩・後輩の間柄だったといえます(写真は手紙の一部、クリックすると少し拡大できます)。 ![]() しかもよくみると、この手紙を書いた巻紙には、もともと絵柄が入っていたようです。人家や花卉(かき)などが模様として描かれており、桂のオシャレな一面をうかがうことができます。また「木圭」という号で署名していますが、これは名字を「木」と「圭」に分解したものです。 さて、桂が寺島に何を伝えたかったのか、彼自身が書いた言葉を少しみてみましょう(読み下しに改めています)。 「その後ご不快いかが成らせられ候や、ご案じ申し上げ候。幾応にも御引きしめ成られ、ご加養これ無くては隙(ひま)取り申し候間、申し上げ候までもこれ無き儀に御座候間、この節の事に付き一入(ひとしお)御念をお入れ成られ、迅速ご全快のご手段肝要に御座候」寺島は大事な時にもかかわらず体調を崩していたらしく、桂は一日も早く全快するよう呼びかけていることがわかります。桂の心境を萩弁で言い表せば「寺島君!寝込んじょる暇はありゃあせんで!」というところだったのでしょう(笑)。 そんな面白い側面もある手紙ですが、実はそのあとに、歴史的に見てもたいへん重要なくだりが出てきます。 「昨夜ご親征の儀もご宸断の趣内々仰(おお)せ出だされ、重畳(ちょうじょう)有り難き御事に存じ奉り候」ここでは、桂は寺島に、前夜朝廷が孝明天皇の大和行幸(やまとぎょうこう)を内定したことを伝えています。大和行幸は攘夷祈願・親征軍議を目的に、長州藩の尊王攘夷派と提携する公卿が画策したもので、事実、翌13日には行幸が宣布の運びとなります。 ところが、同月18日、公武合体派の薩摩・会津両藩の画策で朝廷から尊攘派が一掃され、19日に行幸は中止されました。これが教科書にも出てくる、八月十八日の政変です。 その後、木戸と寺島は、尊攘派への追及の目が厳しい状況のなかで京都に潜伏し続けます。そして翌元治元年(1864)7月、長州藩尊攘派の巻き返しとして禁門の変が起こると、桂は辛うじて但馬国出石(いずし)(兵庫県豊岡市)に逃れましたが、出陣した寺島は久坂玄瑞と差し違えて若い命を絶ちました。 なお私個人としては来年、2007年が木戸の没後130年という節目の年にあたりますので、彼を中心に、しかも「幕末の志士」桂小五郎で展示を行えないかと模索中です。 【木戸孝允略伝】 こちらの記事をご参考ください。 (道迫)
by hagihaku
| 2006-11-17 19:47
| 常設展示室より
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