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山根正次と高杉晋作   <晋作コラム その3>


現在開催中の幕末志士たちの手紙展 ~山根正次コレクション~に関連したコラムをお届けします。

山根正次と高杉晋作
一坂太郎

一、山根が集めた晋作遺墨
 大正五年(一九一六)は高杉晋作の五十年祭だった。木戸孝正を委員長とする東行先生五十年祭記念会は、五月十四日・十五日、東京の靖国神社遊就館において「東行先生遺墨遺品展覧会」を開催している。これは同館の三室を使い、百十五点の逸品を展示するという未曾有の晋作展だった。
 一枚刷りの「陳列目録」が現存するが、それを見ると半分ほどの史料は、今日となっては所在不明だ。それだけに、図録が作られなかったのが残念である。出品点数は晋作直孫の「東京 高杉春太郎氏」からが最も多く、三十五点を数える。次に多いのが、十一点を出品している「東京 山根正次氏」だ。それは次のとおりである(頭の番号は便宜上、著者が加えた)。

①俗謡 幾礼て呉れろ云々
    出雲町居候録
②七言絶句聯句 宿志平生有所期云々
③七言絶句 西馳東●事悠々云々
      東洋一狂生東行
④七言絶句 我亦二州一介臣云々
      庚申春三月録旧作、
      応子大兄需
           春風学人
⑤讃 和魂(蜻蛉ノ絵ハ大田市之進筆)
⑥讃 訪節庵大兄賦拙詩慰其不平
           古狂生

⑦書翰 十一月十日 晋作春風
    先生(松陰)宛
⑧書翰 四月朔日 晋作春風
    玄瑞あて
⑨書翰 十月十九日 三谷生
    長嶺宛
⑩書翰 (日付無シ) 谷潜蔵
    小田村素太郎宛
⑪詩評 (日付無シ)東洋一狂生東行

 ①②④⑤⑥は現在、所在不明であるが、出版物(『日本及日本人』六七七号など)に掲載された写真(影印)でどのようなものかはうかがえる(『高杉晋作史料』第二巻揮毫にすべて転載した)。
 ③⑧⑨は平成十六年、山根元・寿代さん(正次孫)から萩博物館に寄贈された史料中に、⑩は国会図書館憲政資料室所蔵「山根正次文書」中に、それぞれ現存する。⑦の「先生」は、おそらく松陰ではなく、山県半蔵であろう。だとすれば、やはり国会図書館憲政資料室に所蔵されている。
 ところが、⑪は管見の範囲では写真すら現存せず、その影印も知ることが出来ない。
 また、ここに掲げた以外にも山根は、小野為八あて晋作書簡(文久三年八月一日付)を所蔵していたことが文献(『東行先生遺文』『日本及日本人』六七七号)からうかがえるが、現物は所在不明だ。ちなみに山根の父孝中と小野は従兄弟関係にあたる。
 このように山根は、管見の範囲だけでも、十一点もの晋作遺墨を収集していたことが分かる。

二、山根が育った環境
 山根正次とはどのような人物なのだろうか。
 萩に生まれた山根は、明治十五年(一八八二)、東京大学医学部を卒業し、長崎医学校教論兼長崎病院内科長となる。同地でコレラが流行したさい、屍体を解剖し「虎列拉病汎論」を著す。これが日本におけるコレラ菌発見の嚆矢になったという。
 同二十年、法医学研究のためヨーロッパに留学し、二十四年帰国。医療行政や医事衛生事業に尽力し、三十五年には衆議院議員に当選した。三十七年、私立日本医学校(後の日本医科大学)を創立し後進の育成に功あり。大正十四年八月二十九日、六十九歳で没した(『近世防長人名辞典』など)。
 父の孝中は安政五年(一八五八)ころ松下村塾に入門し、吉田松陰に師事した。当年三十六という、最年長塾生であった(海原徹『松下村塾の明治維新』)。
 山根にとって松陰は父の師であり、晋作は父の同志である。また山根は、長州出身の軍人や政治家たちを先輩と仰ぎ、親密な関係を築いていた。「志士」や「元勲」は山根にとり、歴史上の人物というより、きわめて身近な存在だったと言える。
 東行先生五十年祭を記念し、雑誌『日本及日本人』六七七号は「高杉東行先生」特集号を出した。ここに山根は、「高杉東行先生に就いて」と題し寄稿している。
 その中で山根は、自分が育った精神的環境につき、次のように述べる。
「燈下爐邊に於ける父兄の訓話は、常に必ず郷黨の先輩偉人の事蹟を聞くことに慣らされたり、村田清風、玉木文之進、周布政之助、吉田松陰、来原良蔵、青木周弼、口羽徳祐、僧月性、高杉晋作、久坂玄瑞、其他の逸事は別して多く耳底に存せり。祖父も、父も叔父も多く是等の人々に接したれば実話の肺肝に薫染せるもの誠に深かりき」
 こうして育った山根は長じて、「郷黨の先輩偉人」の遺墨を収集した。その目的は「朝暮机上に展覧して、故人に對し平生から浩然の氣を助け養ふの樂を得たり」だという。山根にとり遺墨とは亡き先人と対話し、精神修養するためのツールだったのだ。この点、「史料」と考えて遺墨に接する、研究者とは姿勢が異なる。

三、山根が語る晋作
 同じ寄稿で山根は、晋作につき「嘗て父より叔父より親族より諸先輩より聞き得て記臆する所の二三項」を紹介している。
 まず出てくるのが、幼少のころの晋作が、喧嘩をした相手の子供の住居に放火し「これはおれの家だ。焼くも毀つも此方の勝手だ。ほしい時には何時でも建て貸してやる」と言い放ったという逸話。この家は、晋作の家の貸し長屋だったのだ。
 他にも久坂玄瑞とよく議論し喧嘩をしたという逸話、山県半蔵と江戸に行く道中でコレラが流行していたという逸話、佐久間象山と面会するため仮病を使ったという逸話、元治の内訌のさい、楢崎弥八郎に脱走を勧めたが応じなかったという逸話などが、紹介されている。
 そして山根は「この時若し高杉と云ふ人がなかつたならば、如何であらうか、王政維新に逢ひ、今日の昭代を見ることの出来たのは眞に高杉その人の偉功與つて多きに居ると申して宜しからう」と、手放しの賛辞でしめくくる。史上、最も熱心な「晋作ファン」だったと言っても過言ではあるまい。

四、晋作と山根を結ぶ史料
 最後に一点、晋作と山根の関係につき、触れておきたい。
 山根の祖父山根文季が安政五年(一八五八)八月、流行のコレラで没するや、松陰は文季の息子で松下村塾生の小野正朝から依頼され、十月四日、「山根文季墓誌銘」を著す。
 ただし萩に建てられた実際の墓碑に、松陰の撰文が刻まれることはなかった。「安政の大獄」に連座した松陰が、江戸に送られたため、憚られたからだという(『松下村塾の明治維新』)。その文は、松陰側の控え『戊午幽室文稿』により、現代に伝わっている(『吉田松陰全集・普及版五巻』所収)。
 実は、高杉家に伝わった、晋作が『戊午幽室文稿』を抄録した冊子中に「山根文季墓誌銘」があるのだ。松陰の文を晋作が書き写し、しかもその内容が祖父に関するものなのだから、山根が見たら狂喜しそうな史料である。
 山根の祖父や父が晋作と交わした手紙などは現存していない。それだけにこの史料は、松陰―晋作―山根を結ぶ意味でも貴重である。
 萩博物館では平成十八年十二月十八日から十九年四月八日まで、「幕末志士たちの手紙展 山根正次コレクション」を開催するが、参考史料として晋作のこの写本も展示するつもりである。地下の山根も、喜んでくれるに違いない。

(「晋作ノート」9号)


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by hagihaku | 2007-02-17 18:50 | 高杉晋作資料室より
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