萩学展示室から「書簡でたどる松陰の生涯」第4回目をお届けします。
ケースのうしろ側、壁に見えている大きいパネルが、うずまき型の年表になっています。 松陰が何歳のときに何をしていたかがだいたいわかるようになっていますので、手紙と見比べてみてください。 前回は松陰が22歳、江戸で懸命に学問に励んでいる最中の手紙でした。 今回は江戸をあとにし、脱藩亡命の旅となった東北遊歴の最中、23歳の時に書いた手紙をご紹介します。 松陰が東北を旅することで予想以上の成果をあげている様子をうかがうことができます。 これにどのようにつづったのか、松陰に現代語訳で聞いてみましょう。 水戸への訪問は、かなり成果があったように思います。 これから先の東北の地は、どれほどのものかと期待しております。 松陰は前年12月に江戸を離れたあと、熊本藩士の宮部鼎蔵(みやべ・ていぞう)らと行動をともにし、 水戸藩の儒者で、『新論』の著者として当時全国に名が知れ渡っていた 会沢正志斎(あいざわ・せいしさい)に面会します。 それまで本を通じてしか知らなかった会沢という知の巨人に、 直接会うことにより得られた成果は、計り知れないものだっただろうと想像できます。 ところが先ほども触れたように、松陰はこの旅で脱藩亡命という致命的な罪を犯してしまいます。 それは松陰が、藩から過所(かしょ)と呼ばれる関所手形をもらうことなく江戸を離れたからです。 長くなるので詳しい理由はここでは触れませんが、 この関係で松陰は道中で松野他三郎(まつの・たさぶろう)という変名を使いました。 そうしたことから、この手紙では今回の亡命の件で松陰をかばうため、 多大な尽力をしてくれている親友の来原良蔵(くりはら・りょうぞう)についても次のように触れています。 私のことで、万が一にも良蔵に厳罰が下されるようでは口惜しく思います。 そして松陰は、兄に対し是が非でも良蔵を止めてほしいと頼むことになるのですが、 じつはこの手紙、良蔵のことを思いやってあれこれ書いた部分のほうが長いわけです。 本当に人情にあついというか、義理がたいというか、松陰の人柄をしのばせます。 ともあれ松陰はこのあと、藩の処分によって武士の身分を失います。 しかし松陰は、旅することにより、その損失を補って余りあるほどの成果を得られたのではないでしょうか。 (道迫)
by hagihaku
| 2007-05-11 11:52
| 常設展示室より
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