「親(した)しく大兄(たいけい)の面諭(めんゆ)を受くるが如(ごと)し」
(松陰の手紙より) ひさびさの松陰書簡モノとなりますが、常設展示の改修(リニューアル)後、吉田松陰の手紙については情報がまったく出せていませんでした。スミマセンでした。 先日、手紙を取り替えましたので、以下にみどころをご紹介いたします。 ちなみに今回より、新たに「『松陰先生』のお手紙」と銘打つことにいたします。 まず、展示の趣旨は以下のようなものです。 間近でのぞいてみよう!「松陰先生」のお手紙(展示パネルより) 江戸時代の終わりころに生きた松陰は、生涯にたくさんの手紙(書簡)を書きました。萩博物館では、その貴重な手紙を約60通も保管しています。ところで松陰は、なぜ手紙をたくさん書いたのでしょう。それは、離れた人と連絡を取り合うのに一番良い方法だったからではないかと考えられます。そして、これらの手紙が現在まで大切に保管されてきたおかげで、私たちは、松陰が当時どのように生きていたかを知ることができるのです。あなたも、「松陰先生」が家族に送った生の手紙を読んでみませんか? ![]() とくに注目すべきは、書簡の冒頭部分です。 兄は冒頭で、松陰の「二十一回猛士の説」(内容はのちほど説明します)は素晴らしいが、家族が罰せられると困るので秘密にするようにと忠告します。松陰はこれに対し、兄にじかに会って注意されているようだと返事しました。松陰の茶目っ気あふれる、たいへんほほ笑ましいくだりですが、そのほかにも兄は、獄中で過ごす松陰の食べ物や身の回りを気遣うなど、兄弟の絆がうかがえる興味深い史料です。 右側の写真が書簡の冒頭になります。少し大きい字で書かれた本文が兄梅太郎の往信、細字で行間に書かれたのが松陰の返信になります。 じっさい、兄と松陰とのあいだでどのようなやりとりがあったのか、すこし引用してみましょう。 兄:梅太郎 二十一回猛士の説、喜ぶべし、愛すべし。志を蓄へ気を并(あわ)する、尤(もっと)も妙。然れども今より十八回の猛あらばたまり申さず、多言するなかれ、多言するなかれ。汝の此の言、幕裁緩なりとも、藩議獄に下す所以なり。多言するなかれ、必ず族せられん。 弟:松陰 詢(まこと)に然り然り、潜みて伏すと雖(いえど)も亦孔(はなは)だ是れ昭(あきらか)なり。親しく大兄の面諭を受くるが如し。 このほか、小豆や肉を送るので食べなさいだとか、読書がはかどらないだろうから本を送るだとか、とにかく兄はこまめに弟の世話をやきます。松陰が歴史上に名を残せたのは、兄のおかげだといっても過言ではないでしょう。 説明しよう!「二十一回猛士の説」とは? 松陰は密航失敗後、野山獄中で「二十一回猛士」という号を用いるようになります。その理由を、自ら次のように説明しています。松陰は、ある夜見た夢の中で、神から「二十一回猛士」と書いた札を与えられました。そこで目を覚まし、「杉」の名字にも「吉田」の名字にも、「二十一」の象(かたち)があることに気づきます。さらに、自分の通称「寅次郎」が「虎」に通じ、虎の徳が「猛」であると悟ります。こうして松陰は、虎の勇猛を手本としなければ、どうして武士であることができようかと自分を奮い立たせました。そして松陰は、これまでに3回の「猛」を実行したので、21回の「猛」まで、あと18回実行すると決意したのです。 ちなみに3回の「猛」とは… ①嘉永4年12月、藩の過所(身分証明書)を持たずに東北遊歴に出たこと(脱藩亡命) ②嘉永6年、士籍を奪われた身ながら、藩主に「将及私言」という意見書を提出したこと ③安政元年3月、下田からアメリカへの渡航を図ろうとしたこと(海外密航未遂) 「『松陰先生』のお手紙」コーナーは、史料保存の面を考慮しつつ、皆さんに最適の条件でなまの本物をご覧いただけるよう、徐々に進化してゆきます。展示替えにあわせ、ブログも不定期に更新してゆきますので、いつになるかはっきりとは申し上げられませんが、次回もご期待ください。 (道迫)
by hagihaku
| 2008-01-31 17:58
| 常設展示室より
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