萩博ブログ
2023-10-19T08:39:25+09:00
hagihaku
山口県萩市にある萩博物館の情報をお伝えします。
Excite Blog
「はまかぜだより」44 「オール浜崎 大運動会」
http://hagihaku.exblog.jp/33487858/
2023-10-13T18:19:00+09:00
2023-10-19T08:39:25+09:00
2023-10-13T18:19:11+09:00
hagihaku
くらしのやかたより
令和5年(2023)9月10日、コロナ禍で休止されていた浜崎九友会主催の浜崎町民大運動会が4年ぶりに開催されました。
第四十二回目ということですから、始まったのは昭和54年(1979)ということになります。
「オール濱崎大運動会」の優勝旗
今回ご紹介する写真は、それよりも以前に開催されていた浜崎町内運動会の様子を撮影したものと考えられます。
とある方のアルバムを複写させていただいたのですが、残念ながら撮影年が付されていませんでした。
住吉神社境内における運動会の様子を写した古い写真
住吉神社の境内で開催されていることから、昭和22年(1947)開設の住の江保育園におたずねしましたが、該当する資料は保管されていないということでした。
ならばと、昔から浜崎にお住いの方々におたずねして回りましたが、なかなか特定には至りませんでした。
ただ、幾つか重要な情報を得ることができました。
例えば、大正14年(1925)にお生まれのMさん(どなたか皆さんお分かりですよね・・)は、25,6歳の時にこれに参加されたということでした。
また、昭和17年(1942)にお生まれのFさんは、小学校4年生のころにリレーに出場して一位になったこと、そして新町下の丁が総合優勝し、大会の後に、町内会長Aさんの先導で優勝旗を持って町内を行進したことを思い出して下さいました。
つまり、昭和25年(1950)頃には、この運動会は開催されていたということなのです。
子どもから大人まで多数の参加者で賑わう運動会
これを受けて、図書館に保管されている古い地方新聞などを確認しました。
すると、「萩市報」の昭和26年(1951)10月12日号に、以下のような記事を見出すことができました。
そのまま引用します。
「浜崎町愛護会連合会結成」
浜崎八区では既にそれぞれ児童愛護会が結成されているが、九月十三日浜崎全区の児童愛護会連合会が結成され、会長に竹内八郎氏、副会長に三坂勉氏、大田利義氏が就任された。
結成式終了後、住の江保育園と共催で連合運動会が催され児童約八百名と共に保護者多数が参加、一千数百名の親子が秋晴れの日光を浴びて終日競技に打興じた。
「萩市 児童愛護会」と染め抜かれた幡
いかがでしょうか。
「児童約八百名」、「一千数百名の親子」という参加者数に驚きますが、あらためて写真を見ると、「児童愛護会」の旗が多数翻り、幅広い世代の方々が参加され、そして笑顔があふれています。
浜崎地区の活気が伝わってくるこれらの写真は、この萩市報に報じられた運動会を撮影した可能性が出てきました。
昭和30年(1955)ころの撮影と考えられる運動会の写真
その後、住吉神社に「オール浜崎大運動会」「主催 オール浜崎協賛会」の文字が染め抜かれた優勝旗が保管されていることも分かりました。
愛護会連合会結成を機に始まった運動会は、協賛会主催でしばらく開催された可能性も見えてきました。
ただ、いつまで続いたかはよく分かっていません。
この運動会について何かご存じの方がありましたら、ぜひご教示をお願いいたします。
(230919寄稿)
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「はまかぜだより」43 「住吉祭りの通り町」
http://hagihaku.exblog.jp/33331907/
2023-07-05T16:24:00+09:00
2023-07-05T16:39:39+09:00
2023-07-05T16:24:29+09:00
hagihaku
くらしのやかたより
コロナ禍の終わりが見通せない中、今年も住吉祭りの季節が到来しました。
城下の二大祭礼の一つとされる萩浜崎住吉神社の夏季祭礼ですが、祭礼が開始されたのは万治2年(1659)、今から360年以上前のことです。
8月2日から3日にかけて城下を巡る神輿
一般的に住吉神は、航海守護の神とされます。
しかし、ここ萩城下においては、穢れを祓い厄災を除いてくださる神として信仰を集めてきました。
その背景には、盛夏を迎えるにあたり、衰えた生命力を更新し、その後を無病息災に過ごしたいという城下の人々の切実な願いがありました。
江戸時代の城下町萩は、西国有数の大都市(町人地の人口は全国の城下町で10番目)で、疫病の蔓延が、火災と共に何よりも恐れられました。
浜崎町を巡行する御船と先導する協敬組の人たち(大正末年頃か)
御神幸行列に従う聖(大正末年頃か)
この住吉祭りが城下をあげての祭礼となったのには、藩の関与もあったと考えられます。
現在も祭りの呼び物の一つである御船の巡行や、人目を引く(引いたであろう)「寄進聖」という笠鉾・山車の巡行は、江戸時代には藩の施設である「御船蔵」が担っていました。
町の提灯を拝殿に掲げる「通り町」の人たち
また、現在も引き継がれている「通り町」の制度も、早くに藩の認めるところとなっていました。
「通り町」は、城下の数町内が順に祭礼へ奉仕する制度で、「住吉町」とか「引受け町」とも呼ばれます。
祭りが始まって程なくの寛文6年(1666)に始まり、延宝2年(1674)からは2町内ずつが奉仕を続け、現在に至っています。
藩は祭りを盛んにすることに腐心していたようです。
通り町神事
「通り町」においては、かつては「踊り車」、「夜見世」、「通りもの」などで祭礼を囃していたとされます。
このうちの「夜見世」は、店先や座敷を開放し、祭りに合せて制作した作り物を飾り、道行く人たちに披露するものです。
商店であれば、商品を用いた作り物を工夫し、人目を引く作り物の題材や見せ方が注目され話題になりました。
通り町において披露された夜見世の造り物
「通りもの」については、残念ながら具体的な内容が記録に残されていません。
ただ、お隣の福岡県「博多どんたく」においては、現在も多くの「通りもん」が街を練り歩きます。
また長崎県内では、盆の仮装行列を「トシモン」とか「トオシモノ」と呼ぶところがあります。
類推するに、萩城下の「通りもの」は、人目を引く衣装をまとい、三味線・笛・太鼓などを奏でながら祭りを囃して練り歩く行列の類いだったのではないかと考えられます。
「通り町」の呼び名は、これを担う町内ということで定着したもののようです。
博多どんたく港祭りにおいて街を練り歩く「通りもん」
「通りもの」を繰り出すという目的のために町内の人たちが集うことは、日ごろ異なる生業に従う人が多い城下町においては、互いの人間関係を確認し、強めていく上で、とても大事な機会になっていたと考えられます。
(230609寄稿)
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「はまかぜだより」42 「120年前のメダル」
http://hagihaku.exblog.jp/33188705/
2023-04-07T11:24:00+09:00
2023-04-07T11:33:42+09:00
2023-04-07T11:24:34+09:00
hagihaku
くらしのやかたより
以前この欄で(※1)、明治期に開催された内国勧業博覧会や水産博覧会のことを話題にしたことがあります。
そして、浜崎を含む萩地域からは、特に水産業にかかわりのある産品が多数出品され、その多くが大変高い評価を受けていたことに触れました。
明治36年(1903)開催の第五回内国勧業博覧会見物案内図
(※ 第五回内国勧業博、覧会は大阪天王寺において開催されました。
全国からの出品数は27万6719点、
3月1日から7月31日までの153日間で、来場530万人!
を数えたそうです。)
内国勧業博覧会は、日本国内の産業を興すことを目的とした博覧会で、明治10年(1877)、明治14年(1881)、明治23年(1890)、明治28年(1895)、そして明治36年(1903)の都合5回開催されました。
全国から出品された様々な分野の産品は、審査され、優れた物や技術については表彰され、全国に紹介されました。
それらは、各地の産業の振興に活かされました。
三等賞(弎等賞)のメダル
今回ご紹介するのは、その第5回の内国勧業博覧会における入賞者に贈られたメダルです。
入賞したのは「サザエ日本煮(やまとに)」缶詰で、出品者は浜崎の馬庭三四郎氏です。
「日本煮」は「大和煮(やまとに)」とも表記されますが、砂糖、醤油、ショウガなどを加えた濃い味付けの煮物です。
牛肉や鯨肉(※2)を用いて製造されたものが良く知られています。
三等賞メダルの表と裏、会場の建物や出品項目がレリーフで表現されている
入賞の後に製造されたサザエ日本煮缶詰のラベルが伝わっていますが、それには「第五回内国勧業博覧会有効三等賞受領」の文字が印刷されています。
「特約一手販売店」として神戸市の商店名も印刷されていることから、このサザエ日本煮缶詰は広く国内外において販売されたものと考えられます。
サザエ日本煮の缶詰ラベル
この缶詰製造元の馬庭家においては、江戸時代から「俵物(たわらもの)」の一つとして清国に輸出されていた「鱶(ふか)鰭(ひれ)」の生産も行っていたようで、明治28年(1895)の第4回内国勧業博覧会における表彰状である「褒状(ほうじょう)」も伝わっています。
前述の入賞メダルやこの褒状は、明治維新の後に、全国各地で産業を振興させようとしてきた日本の歩みを、具体的に示す貴重な資料と言えます。
そして、海と深いかかわりを持ちながら発展してきた浜崎の特質を、良く表す資料でもあります。
第四回内国勧業博覧会における褒状
実はこれらの資料は、今回、馬庭家の整備・利活用にあたり確認されたものです。
120年から130年近く前の誇らしい出来事を示すこれら資料は、ひっそりと家の中に掲げられ、保管されていました。
そのような「おたから」が、個々の家で「普通に」伝えられていることに、浜崎の「まち」の持つ懐の深さのようなものを感じます。
浜崎四区 馬庭家周辺の町並み(昭和40年代撮影)
ちなみに、第4回の内国勧業博覧会においては、馬庭三四郎氏の他に、浜崎の長谷川虎蔵氏出品の「鱶鰭」が「有功二等賞」を、同じく竹内七三郎氏出品「鱶鰭」が「有功三等賞」を授与されています。
浜崎四区 馬庭家周辺の町並み(昭和40年代撮影)
浜崎の先人たちは、日本の水産業の振興に大いに貢献してきました。
(230318寄稿、清水満幸)
※1 はまかぜだより13「浜崎と内国勧業博覧会」(2013年3月発行の「浜風だより」19号)
※2 はまかぜだより07「浜崎とクジラ(後編)」(2011年5月発行の「浜風だより」12号)
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「はまかぜだより」41 「『素倉』と『協敬組』」
http://hagihaku.exblog.jp/32600246/
2022-12-08T12:12:00+09:00
2022-12-08T17:30:14+09:00
2022-12-08T12:12:38+09:00
hagihaku
くらしのやかたより
前号の「浜風だより53号」において、「汽船荷客取扱処」の伊勢島商店屋上に設けられた望楼についてご紹介しました。
その後、その望楼の細部を確認できるより鮮明な写真を見出すことができました。
あらためてご紹介します。
ガラス窓を巡らした望楼の様子がよく分かります。
(伊勢島商店屋上に設けられた望楼)
さて今回は、その望楼の写真手前(北側)に見える大きな蔵のような建物について触れてみたいと思います。
この建物も、港町・浜崎ならではのものです。
この建物が建つ場所には、江戸時代に藩の番所がありました。
番所では、港に出入りする船の取締と、積み出し・積み入れする荷物(貨物)に対して、「口銭」と呼ばれる利用料にあたるものを徴収していました。
現在「問屋町筋」と松本川との間に河岸道路が整備されていますが、かつてこの場所は荷物の荷上場としても利用されていました。
(望楼の手前に見える大きな蔵が「興倉(おきぐら)」、別名「素倉(すぐら)」)
明治以降、この荷上場の管理や口銭の徴収などの役目を担ったのは、17軒の廻船問屋をはじめとした浜崎の町人たちでした。
その町人たちは、「巴北発輝社」と呼ばれる団体を興しました。
それは巴城=萩の北において輝きを発するという、大変に意欲的な名の荷上場管理団体でした。
その団体が整備して管理したのが、写真に写る「興倉(おきぐら)」です。
浜崎の人たちは、この建物を「素倉(すぐら)」とも呼んだそうです。
平素は中が空で、荷物が置かれていなかったからです。
(松本川河口の浜崎港、鶴江の台より撮影された浜崎魚市場付近。 河口近くに設けられていた雁島橋が上流部に移り、浜崎町に至る松本川沿いの 道路が整備されたのが大正14年(1925)であることから、 撮影はそれ以降、昭和初年頃か。)
巴北発輝社の荷上場に水揚げされた荷物は、一旦この素倉に納められました。
その荷物の荷揚げや仕分け、さらには荷主への配送に携わったのが「素倉仲仕(すぐらなかし)」と呼ばれた人たちです。
この素倉仲仕は、前号で触れた大阪商船扱いの荷物も含め、浜崎港の荷揚げ作業に独占的に関わったとされます。
(図の左下部に「素倉」、右下部に「仲仕寄場」が表現された「物品回漕店 木嶋久治郎商店」の図)
素倉の北側に設けられた仲仕詰所には、常時、20~40名の仲仕が詰めていたとされます。
それほど荷扱いが多かったということで、浜崎港の繫栄を示すものです。
それは、1925年(大正14年)に萩駅・東萩駅まで鉄道が開業し、貨物の運搬が陸上輸送に変わっていくまで続きました。
(住吉祭りにおいて浜崎町を巡行する「御船」と先導役を務める「協敬組」)
素倉仲仕については、とても強固な団結心で結びついた団体だったそうです。
素倉が役目を終えた後も、住吉神社の崇敬団体「協敬組」として、住吉祭り御船巡行の先導役を務めるなど奉仕を続けました。
(220915寄稿 清水)
〈参考文献〉
・ 『萩の百年』
・ 『萩市「浜崎地区」伝統的建造物群保存対策調査報告』
・ 『明治期 山口県商工図録』
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「はまかぜだより」40 浜崎の伊勢島利介商店と望楼
http://hagihaku.exblog.jp/32600172/
2022-12-08T11:44:00+09:00
2022-12-08T15:11:55+09:00
2022-12-08T11:44:31+09:00
hagihaku
くらしのやかたより
『山口県豪商便覧』という、明治19年(1886)に刊行された商工便覧が伝わっています。
県内各地の商店や会社、製造所などを、当時先進の銅版画(エッチング)で紹介したものです。
山口、防府、徳山、柳井、岩国、萩の171業者が掲載されていますが、そのうち萩については、46業者を数えることができます。
掲載業者数の四分の一強を占めるということで、明治中期の萩の活況がうかがえます。
(大阪商船の社旗を掲げた「汽船荷客取扱処 伊勢島利介商店」と「汽船荷揚場」の図)
この便覧の中に、「汽船荷客取扱処」「汽船荷揚場」として浜崎の伊勢島利介商店が紹介されています。
実は、萩以外にも13の汽船荷客取り扱い業者や回漕業者が紹介されていて、当時の物流において船が大変重要な位置を占めていたことが分かります。
ちなみに、神戸-馬関駅(下関駅)の山陽鉄道が全線開業するのは、明治34年(1901)のことです。
明治20年頃より京阪神に盛んに出荷されるようになった萩特産の夏みかんは、当初は、専ら船で運ばれていました。
(「大」をデザインしたマークが煙突に描かれた大阪商船の汽船) (大阪商船株式会社のポスター)
そのような貨物に加えて人も運んだのが、浜崎に寄港した大阪商船会社の汽船でした。
社史などによると、明治17年(1884)に、大阪と境港・安来を結ぶ蒸気船による定期航路が開設されます。
隔日の運航で、山口県の日本海側では江崎、須佐、萩、仙崎に寄港しています。
伊勢島利介商店は、その大阪商船会社の代理店として、荷客取り扱いをしていたようです。
便覧に掲載された商店の店先には、漢字の「大」を図案化した大阪商船会社の社旗が掲げられています。
(松本川河口の浜崎港、大正13年〔1923)以前の撮影、浜崎の林家所蔵)
商店があった場所は、「萩印刷」があった場所です。
明治期には松本川沿いの道路はなく、商店の東側(川側)がすぐに岸壁・ガンギ(石段)となっていたことが、先に紹介した「荷揚場」の版画から見て取れます。
当時の建物と蔵が現存しますが、かつては、蔵は川側に開口していて、船(はしけ)との間での荷物の積み降ろしが行われていました。
(煙突、蔵の向こう側に望楼が確認できる)
また伝承によると、伊勢島商店は船宿を兼ねていたとされます。
そして、建物の階上には、船の出入りを確認することができる望楼があったとされています。
林家(奈古屋商店)に伝わる大正年間に撮影された写真には、その望楼が写っています。
港町浜崎らしい建物となっています。
(220612寄稿 清水)
〈メモ〉
・ 明治20年(1887)に大阪商船株式会社の取次店
・ 明治22年(1889)、伊勢島利介の勧奨により、萩の夏橙仲買商が集まり、萩蜜柑輸出仲買商組合を結成する(組合長山中三吉)
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「はまかぜだより」39 「萩商港」
http://hagihaku.exblog.jp/32541090/
2022-11-26T16:13:00+09:00
2022-11-26T16:17:27+09:00
2022-11-26T16:13:16+09:00
hagihaku
くらしのやかたより
前号では、離島と浜崎とを結んでいた松本川河口の浜崎港について触れました。
今号では、現在、離島航路の定期船が発着している萩商港についてご紹介します。
(松本川河口を出港する定期船「たちばな」)
この萩商港については、今から60年前の1962年(昭和37年)12月に起工され、1976年(昭和51年)8月に完成しています。
14年間を要して整備されましたが、共用の開始は、翌年1977年(昭和52年)の4月からでした。
今回掲載の写真には、整備中の萩商港と、河口を出港していく定期船「たちばな」が写っています。
日本海に面して遠浅の海と砂浜が広がっていた場所に、大規模な港が建設されつつあることが記録されています。
(整備途中の萩商港)
(萩商港整備前の菊ヶ浜・松本川河口)
波風の影響を強く受ける場所に、長い年月と多額の建設費用をかけて、なぜ、これだけの規模の港が整備されたのでしょうか。
素朴な疑問を抱き、萩市の歴史をまとめた『萩市史』に当たってみましたが、その理由は記されていませんでした。
そこで、整備についての情報を得るために、起工前後に発行された地方新聞に目を通してみました。
幾つかの興味深い記事が認められましたので、以下に内容を要約して記します。
・流出する土砂で松本川や姥倉運河が常に浅くなってしまうことから、根本解決を国に陳情した
・(市内の小畑に全国の漁船が利用できる漁港が整備され始めているので)「菊ヶ浜商港」を、建設省事業として整備を進めることになった
・港の整備により、鶴江や浜崎の漁船の係留や水揚げが容易になると期待された
・地盤が軟弱であることから整備が困難で、完成が危ぶまれた
・起工時には、韓国との国交正常化協議が進められており、正常化後を見込み、萩(潟港を含めた萩港)-韓国(蔚山)間の貿易が模索された。
・商港の起工に先立つ1962年10月には、将来の交易に備え、菊ヶ浜(浜崎住吉神社裏)に門司検疫所萩出張所が設けられた
・萩-小郡間、萩-岩国間の交通網(鉄道、道路)を整備し、それと萩港を利用した韓国との貿易を結びつける議論が盛んになされた
いかがでしょうか。
もう少し丹念に資料を確認する必要はありますが、離島航路の安定的な運航だけでなく、海を介した広い範囲での交易が模索されていたことが見えてきました。
(220107投稿、清水)
※ 日韓国交正常化は1965年(昭和40年)
※ 萩市と韓国の蔚山広域市との姉妹都市提携は1968年(昭和43年)、日韓国交正常化後、第一号の姉妹都市提携
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「はまかぜだより」38 「河口の港・浜崎港」
http://hagihaku.exblog.jp/32540798/
2022-11-26T15:41:00+09:00
2022-11-29T09:17:04+09:00
2022-11-26T15:41:44+09:00
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くらしのやかたより
河口の港・浜崎港
かつて松本川の河口部分は、松本川の流れが運ぶ土砂が堆積する場所でした。
そして冬になると、季節風と打ち寄せる荒波により、菊ヶ浜の方から砂州が発達していました。
河口が浅く狭くなり、菊ヶ浜と鶴江が地続きになることもあったそうです。
そうなると、船の航行は難しくなり、大型の船は河口にある浜崎港を利用できませんでした。これは長い間、浜崎港の抱える課題となっていました。
(鶴江の台から撮影された菊ヶ浜・松本川河口)
(浜崎港の改修前〔上〕と改修後〔下〕)
これが改善されたのが、1925年(大正14年)の(河口から沖合に伸びる防波堤で松本川の流路を安定させた)浜崎港改修と埋め立てでした。
この年、鉄道が萩まで開業することに合わせ、浜崎と新川との間を結んでいた雁島橋が、東萩駅に近い松本川の上流に架け替えられ、橋から浜崎に至る松本川左岸の道路も整備されました。
鉄道開業の後も浜崎は、各地と海や川でつながる物資の集散地として、重要な役割を果たしました。
江戸時代に浜崎の御船倉(代官)が治めた萩沖の島々とも、この浜崎港を通して行き来が行われていました。
今回は、その萩の離島と浜崎との関係を伝える写真をご紹介します。
一枚は1960年(昭和35年)頃に鶴江の台から撮影された浜崎港の写真です。
(松本川河口の浜崎港)
これには、「(有)玉江石油」前の松本川に面した岸壁に、離島と浜崎港を結ぶ定期船が写っています。
写真右部に萩~見島間を結ぶ「見島丸」、それより少し上流(写真では左)に萩~大島間を結ぶ「大島丸」、そして川中側に「大島丸」に舫う(もやう)形で萩~相島間を結ぶ「相島丸」が、それぞれ舳先を上流に向けて繋がれています。
(繋留された定期船「見島丸」、「大島丸」、「相島丸」)
ちなみに「見島丸」(1959年建造の鋼船、約100㌧)は、この当時、見島との間を2時間30分で結んでいました。
また、「大島丸」(1956年建造の木造船、約52㌧)は所要40分で、そして「相島丸」(1959年建造の木造船、約40㌧)は所要1時間10分で、浜崎港とそれぞれの島とを結んでいました。
(大島から到着した定期船「はぎ」と下船する乗客)
もう一枚の写真は、大島から到着した定期船「はぎ」(1971年、昭和46年に「見島丸」から船名変更)から、乗船客が降りる様子が写っているものです。
後方には、鶴江の台を背景に、1971年4月に進水した定期船「たちばな」が写っています。
浜崎港には島々の農産物ももたらされ、定期船発着場の近くには、それらを取り扱う農協の共和支所が設けられました。
これらの定期船は、1977年(昭和52年)に萩商港が整備されるまで、松本川の河口を出入りしていました。
(211010投稿、清水)
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「はまかぜだより」37 「踊り車と掲げられた額」
http://hagihaku.exblog.jp/32499704/
2022-11-15T17:15:00+09:00
2022-11-19T10:52:07+09:00
2022-11-15T17:15:34+09:00
hagihaku
未分類
以前このコーナーで、江戸時代終わりころに編まれた『八江萩名所図画』の中の、「住吉祭礼の図」をご紹介しました。
住吉祭りの折に市中を巡行する「踊り車」が描かれたものです。
この「踊り車」の巡行については、1700年代初め頃の記録に見えますので、300年の歴史を誇ることになります。
(浜崎本町の通りを進む「踊り車」、大正末年から昭和初年の撮影か)
1659年に住吉祭りが始まった当初は、飾りが施された小さな車(山車)を子供が曳き、同じく浜崎町より子供たちによって曳き出される小さな「車船」とともに、市中を巡っていたとされます。
それらはその後50年の間に、次第に大型化し、山車や御船(山車)に人が乗り込んで踊りや謡いを披露するという、人の耳目を集める華やかなものに進化していっています。
どうも江戸時代の萩城下の人々は、人が驚くような趣向を凝らしたものや、華やかで活気があるものを好むという意識を持っていたようです。
(『八江萩名所図画』「住吉祭礼」の図に描かれた「踊り車」、庇の上に「造り物」が認められる)
そういった視点で「住吉祭礼の図」中の「踊り車」を見てみると、進行方向側の屋根破風の下に設けられた庇(ひさし)の上に、興味深いものを認めることができます。
そこには、昇る朝日を背景にした富士山のような「造り物」が表現してあるのです。
(長門市仙崎の祇園祭りの「踊り車」)
萩の住吉祭りと同様に「踊り車」が曳き出される祭礼が、浜崎町の対岸(?)の長門市仙崎に伝えられています。
彼の地の「踊り車」においては、この庇の上に「造り物」が飾られます。
以前は毎年のように造り替え、時には博多山笠の飾りの一部を譲り受けて、その年の巡行に備えたこともあったと聞きました。
(現在、住吉祭りにおいて曳き出される「踊り車」)
現在、萩においては、ここに立派な文字が書かれた大きな「額」が掲げられています。
おそらく住吉祭りの「踊り車」においても、多い時には5台も曳き出されていた「踊り車」のそれぞれで、毎年趣向を凝らした「造り物」を飾り付け、城下の人々を驚かせ楽しませていたのでしょうが、いつのころからか、それが「額」に取って代わったようです。
(浜崎本町の通りを進む「踊り車」、大正末年から昭和初年頃の撮影か)
100年近く前に撮影された「踊り車」の写真には、既に大きな「額」が掲げられています。
その後の様々な年代に撮影された写真にも「額」が写っていますが、「額」の文字は一様ではありません。
「造り物」から「額」に変わった理由については、残念ながら伝えられていません。
ひょっとすると、城下においては、「額」に表現された「書画」の出来栄えや工夫を尊ぶ文化が、早くから形作られていたのかもしれません。
(210610寄稿 清水)
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「はまかぜだより」36「映画館『萩セントラル』」
http://hagihaku.exblog.jp/32499627/
2022-11-15T16:50:00+09:00
2022-11-15T16:57:04+09:00
2022-11-15T16:50:25+09:00
hagihaku
くらしのやかたより
昭和28年(1953)の正月、浜崎町の映画館「萩セントラル」において、アメリカ映画「陽のあたる場所」が上映されました。
主演はモンゴメリークラフトとエリザベステイラー、アカデミー賞にノミネートされた作品ですが、上映を知らせる当時のチラシが伝わっています。
(戦後、洋画上映館として人気を集めた「萩セントラル」、1950年頃の撮影)
チラシの下半分には、菓子店(岡村本店)の広告が掲載されています。
「あけましておめでとうございます」と年頭のあいさつの後、「栄養価の高い菓子」として、「百匁(375g)50円」の「かりんとう」や、「百匁で60円」の「砂糖のついたビスケット(?)」を勧めています。
ちなみに、この映画の観賞料金は90円でした。
(「陽のあたる場所」上映を知らせる折込チラシ)
「萩セントラル」は、浜崎本町の吹上の坂の途中にあり、第二次世界大戦後は、洋画専門の上映館として人気を集めました。
昭和34年(1959)、市内西田町に、映画館「スカイシネマ」として生まれ変わりますが、その後もしばらく、「萩セントラル」では映画の上映が続いたそうです。
映画館が無くなると人通りが少なくなり、商売に影響が出るからというのが理由の一つでした。
当時、映画は娯楽の中心にありました。
(「萩セントラル」の前身である「住吉座」における演奏会の様子)
映画館「萩セントラル」は、元々は「住吉座」という芝居小屋でした。
館内には、後々まで桟敷や花道、奈落などがあり、畳に座布団を敷いて、冬は火鉢にあたりながら映画を観ていたそうです。
芝居小屋「住吉座」は、大正5年(1916)、資本金1万円で、浜崎町などの有力者9名の合資により開設されます。
この年の1月15日に地鎮祭、2月16日から建築を開始し、4月5日には竣工。
そして5月1日にこけら落としの興行が行われています。
浜崎町では、前年の大正4年(1915)、住吉神社が郷社に昇格しています。
港をひかえ、県道が町内を貫いていた当時の浜崎町は、商業地として大変に賑わっていました。
経済的な豊かさを背景に開設された文化発信の拠点施設は、芝居小屋から映画館へと形を変えつつも、長く支持されていきました。
(解体直前の「萩セントラル・住吉座」)
(西田町に開館した「スカイ・シネマ」館、駐輪された自転車の数に驚く)
ちなみに「萩セントラル」・「住吉座」の跡地は、現在、観光利用ができる駐車場、兼ねてイベント広場として整備されています。
しばらくの休止がありましたが、人が集う場が引き継がれます。
(201120寄稿 清水)
※萩セントラルを始めとした映画館の、1955年ころの折込チラシについては、以下の萩博物館ブログでも触れています。
「コマーシャル100年 in 萩」展で萩再発見の8 | 2013-02-03 | くらしのやかた https://hagihaku.exblog.jp/19940855/
「コマーシャル100年 in 萩」展で萩再発見の9 | 2013-02-05 | くらしのやかた https://hagihaku.exblog.jp/19948984/
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「はまかぜだより」35 「雁島橋(がんじまばし)」
http://hagihaku.exblog.jp/32487436/
2022-11-11T15:06:00+09:00
2022-11-11T15:17:19+09:00
2022-11-11T15:06:52+09:00
hagihaku
くらしのやかたより
藩政時代、橋本川と松本川は、萩城の外側の堀であることから、橋を架けることが制限されていました。いわゆる「川内」と「川外」の出入りは、橋本橋と松本橋の2橋を除いては、10ヵ所の船渡しと陸渡り (かちわたり)が利用されました。 (現在も運航されている「鶴江の渡し」〔1960年頃、角川政治さん撮影〕)
(香川津の渡し〔戦前撮影〕)
明治維新の後、時期は定かではありませんが、明治初期に、松本川下流の浜崎と対岸の新川・姥倉運河口との間に雁島橋が架けられました。当初の橋は、国重政亮という人の私設の橋で、通行にあたっては、一回あたり4厘(4/10銭=4/1000円)の橋銭が徴収されたとされます。当初の雁島橋は、木材を組み合わせて作られた橋で、人馬が行き来する橋面に土を敷いて踏み固めたものでした。歩くと揺れる脆弱(ぜいじゃく)なものであったとされますが、当時の阿武郡の中心市場と言える商業地・浜崎に通じることから、往来は盛んでした。
(椿東地区の上流方から撮影された「鴈島橋」、手前に竹の筏が写り込む)
明治38年(1905)、雁島橋は山口県が買収し管理するところとなります。それは、萩町と田万崎□(田万川)を結ぶ県道が、海岸沿いに改修整備されたことにともなうものです。東田町から浜崎町、そして御船倉横の通りから雁島橋を経て、新川・小畑・越ケ浜を通る路線が設定さました。
(浜崎から撮影された「鴈島橋」)
橋の架け替えは、この年の8月に開始され、翌明治39年(1906)4月に竣工します。新しい橋の長さは141間(約250m)、幅が14尺(約4.2m)、橋を支える柱には石材が用いられました。橋の上面に板が敷かれた板橋で、鉄製の高欄(手すり)も設けられました。4月26日に挙行された開通式には、吉田松陰の実兄である杉民治(当時78歳)夫妻が渡り初めを行っています。この橋の開通により、港をひかえた浜崎は、物流の拠点として益々発展しました。
(椿東新川地区から撮影された「雁島橋」)
この後、雁島橋は、大正13年(1924)に県道の路線変更、拡幅に伴い、松本川左岸(浜崎側)で350m、右岸(新川側)で200m上流に、コンクリート橋として架け替えられました。大正14年(1925)11月には、新しい雁島橋近くの東萩駅まで鉄道が開通、鉄道輸送が活発になります。そして、浜崎の物流拠点や商業地としての位置づけが変わっていきました。ちなみに現在の雁島橋は、昭和34年(1959)に架け替えられたものです。
(200912寄稿、清水) ]]>
「はまかぜだより」34 「州口(すぐち)を切る」
http://hagihaku.exblog.jp/32487407/
2022-11-11T14:51:00+09:00
2022-11-11T15:20:17+09:00
2022-11-11T14:51:26+09:00
hagihaku
くらしのやかたより
『萩市史 第二巻』によると、1928年(昭和3年)6月24日、梅雨末期の豪雨によって阿武川が増水し、河口に位置する鶴江地区においては、40戸が床上・床下浸水したとされます。
同じく松本川河口に面する浜崎地区や市内の低地においても、相応の被害があったと考えられますが、市史はそれを伝えていません。
(松本川河口・姥倉運河入口〔1960年頃、角川政治さん撮影〕、河口部分が狭くなっているのが分かる)
低湿な三角州に築かれた萩城下町では、長年、住む場所や耕作地を維持するために出水と戦い、水と上手に付き合う工夫を続けてきました。
例えば、人工の溝川である新堀川と藍場川が、それぞれ江戸時代の1680年代と1740年代に築かれ、それらは長く萩三角州内の排水を担ってきました。
また幕末の1855年(安政2年)には、2ヵ年かけて姥倉運河が開削され、増水した松本川の水がいち早く日本海に流出されるようになりました。
(乞う参照「はまかぜだより31」)
それにもかかわらず、の浸水です。
(砂浜〔砂州〕が菊ヶ浜方面から写真手前方面へ広がっている)
もともと松本川の河口部分は、豊かな川の流れが運ぶ土砂が堆積する場所でした。
これに加え、季節風が吹き募り荒い波が打ち寄せる季節になると、菊ヶ浜の方から砂州が発達し、河口は狭く浅くなっていたようです。
そのため、河口が浅く狭くなっている時季に一時に大雨の出水があると、姥倉運河をもってしても排水が追いつかず、水が溢れることがあったようです。
(松本川河口、浜崎〔写真左〕と対岸の鶴江〔写真右〕との間が砂州〔砂丘〕で地続きとなっていることが確認できる)
今回ご紹介する写真は、およそ100年前に撮影されたものです。
松本川の河口部分に発達した砂州(砂丘?)を認めることができます。
実際に鶴江地区の方々からは、「昔は、砂州の上を歩いて浜崎に渡り、加工場などに働きに出ていた(と聞いている)」という話を伺ったことがあります。
(橋本川河口の大雨の出水時の様子、西の浜から伸びた砂州に流路が設けられる)
そこで、梅雨に入る前などには、砂州をクワで掘って流路を作る「州口を切る」作業を行っていたとされます。
溝を一筋掘ると、流れる水によって次第に流路が広がり、船の出入りも可能になっていたそうです。
この「州口を切る」ことついては、伝承として伺うことはできますが、確かな記録を見いだし得ていません。
残念ながら、いつ頃まで行われていたか、誰がこれを行っていたのか等について、ここに記すことができません。
どなたかご存知の方はいらっしゃいませんでしょうか。
ご教示をいただくことができれば「幸せます」。
(200428寄稿、清水)
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「はまかぜだより」33 「ヘリコプターの菊ヶ浜不時着」
http://hagihaku.exblog.jp/32430048/
2022-10-27T09:45:00+09:00
2022-10-27T18:28:25+09:00
2022-10-27T09:45:37+09:00
hagihaku
くらしのやかたより
昭和39年(1964)、第18回オリンピック競技大会が東京で開催されました。
その年、「あしやからの飛行(FLIGHT FROM ASHIYA)」というアメリカ映画が公開されます。
今から56年前(2020年現在)のことです。
(菊ヶ浜に不時着したヘリコプター、機体に「U. S. AIR FORCE」〔米空軍〕の文字が見える)
この映画では、福岡県の芦屋基地に駐留している米空軍の航空救助隊が、台風で遭難した日本の貨物船の救助に向かう話を物語の中心として、それぞれ戦争で心に傷を負った救助隊員3人の葛藤が描かれています。
隊員3人を、ユル・ブリンナー(王様とわたし、荒野の七人など)、リチャード・ウィドマーク(アラモ、シャイアン、ニュールンベルグ裁判など)、ジョージ・チャキリス(ウエストサイド物語など)が演じています。
(1964年公開の映画「あしやからの飛行」〔パンフレットより〕)
同じ福岡県の板付基地(現在の福岡空港)と芦屋基地には、戦後、米軍が駐留し、朝鮮戦争(朝鮮動乱、昭和25~28年)では、攻撃機が出撃する前線の航空基地となりました。
そして朝鮮戦争が始まって2か月後には、萩市の見島にも、米軍のレーダー監視所が置かれました。
芦屋基地や見島への米軍の駐留は昭和35年(1960)まで続き、板付基地への駐留は昭和44年(1969)まで続きました。(※1)
(不時着したヘリコプターとそれを囲む人たち)
そのような歴史背景を踏まえて、今回紹介する写真をご覧いただければと思います。
撮影されたのは、昭和31年(1956)2月23日です。
場所は菊ヶ浜で、写真には「不時着した米空軍ヘリコプター」と書付がありました。
「U. S. AIR FORCE」(米空軍)と書かれた機体を、こどもたちを含む多くの人が取り囲んでいます。
どこの米空軍基地の所属か、どのようなトラブルがあったのか、この後不時着機はどうなったのかなどは、情報が乏しく分かっていません。
(見島に飛来した米空軍の水上飛行機、1950年代の撮影か)
他にも、「太平洋戦争が始まる少し前に、海軍の戦闘機が菊ヶ浜へ不時着したことがある」という話を聞いたことがあります。
前回のはまかぜだより「飛行機と菊ヶ浜」でご紹介したように、広い広い砂浜が広がっていたからこその、ヘリコプターや飛行機の不時着です。
ちなみに、写っているヘリコプターは、シコルスキー社製造のH-19型で、操縦士2名の他に、10名の兵員、または救助員2名と担架6台の搭載が可能であったとされます。
( 200201寄稿、清水 )
(※1) 昭和45年(1970)、日米安全保障協議委員会おいて米軍管理の板付飛行場の返還、運輸省への移管が決まる。
米軍の常駐機がいなくなるのは昭和44年(1969)。
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「はまかぜだより」32 「飛行機と菊ヶ浜」
http://hagihaku.exblog.jp/32429996/
2022-10-27T09:19:00+09:00
2022-10-27T10:22:13+09:00
2022-10-27T09:19:50+09:00
hagihaku
くらしのやかたより
ライト兄弟が、ライトフライヤー号で世界初の動力飛行を行ったのは、明治36年(1903)12月17日のことです。
それから13年後、大正5年(1916)9月25日、「国民飛行協会」が主催した「飛行会」において、萩の空を初めて飛行機が飛びました。
飛行機の名前は「つるぎ号」、操縦士は陸軍の井上武三郎「騎兵(?!)」中尉でした。
菊ヶ浜で撮影された大変に鮮明な機体写真と、指月山を背景に飛行している写真が伝わっています。
(広々とした菊ヶ浜において指月山を背景に撮影された「つるぎ号」)
機体は国産で、資料によると全幅が15.5m、全長が約8.5m、ルノー式70馬力のエンジンを積んでいたようです。
桧(ひのき)や樫(かし)を骨組みとし、翼は帆布張り、重さは約480㎏、飛行速度は105㎞/h、航続時間は4時間とされています。
(菊ヶ浜から日本海の上空を飛行する「つるぎ号」)
これらの写真で注目されるのは、広々とした菊ヶ浜です。
飛行機は、離着陸のために一定の距離を滑走する必要があります。
菊ヶ浜でそれが可能であったということは、平坦で、機体の重さで車輪がめり込まない締まった土地があったということかと思います。
古い絵はがきや古写真などを見ると、住吉神社境内から波打ち際までの間には、大変に広い砂浜が広がっていたことが分かります。
かつては、加工した魚を干す干し場として利用されていた場所で、その辺りが滑走路として使われたのかもしれません。
(他の「飛行会」開催地では100m×250m程度の練兵場などを利用)
(菊ヶ浜から日本海を見通すことができたかつての住吉神社境内) (広い砂浜が広がる菊ヶ浜)
「つるぎ号」を用いた「飛行会」は、松江、米子、浜田、山口と各地で開催されました。
山口町(現山口市)での「飛行会」は、観覧料を集めての開催でしたが、「数万人」の人が詰めかけ、入場できない人たちが高台や山に集まり賑わったとされています。
新聞記事によると、「つるぎ号」は、山口町においての「飛行会」を終えた後に、解体、梱包して、4台の荷馬車に載せて萩に運ばれたようです。
残念ながら、萩における「飛行会」当日の様子を伝える新聞記事は見いだせませんでしたが、この催しに合わせて、飛行機煎餅(せんべい)という土産品が売り出されたとされます。
(浜崎地区の航空写真、昭和初年頃の撮影)
ちなみに「国民飛行協会」は、飛行機の有用性を説き、飛行機に関わる人材を育成する目的で設立されたもので、代表は下松出身(幼少のころ萩市長野住)の元陸軍中将長岡外史でした。
長岡は、「日本の航空の先駆者」とされますが、陸軍軍人の時代にスキーを導入普及し、「日本のスキー先駆者」としても知られています。
(広い砂浜で行われていたイリコの天日干し)
ともあれ、「飛行会」の成功は、広い菊ヶ浜あってこそのことでした。
菊ヶ浜は、浜崎の水産加工業を支えただけでなく、現在に続く航空業の発展に一役かっていたのです。
(191010寄稿 清水)
〈参考〉
『山口県の航空史あれこれ』、『萩の百年』
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「はまかぜだより」31 「土地の発する声を聞く」
http://hagihaku.exblog.jp/32423453/
2022-10-25T18:24:00+09:00
2022-10-27T15:58:12+09:00
2022-10-25T18:24:13+09:00
hagihaku
くらしのやかたより
今年(2018年)の5月下旬、NHKの「ブラタモリ」という番組で、城下町萩が取り上げられました。
その中で、昔から萩の人々が、土地の特徴を良く理解して暮らしてきたことについて紹介されました。
(萩市浜崎の「吹上げ」の緩やかな坂道、砂丘の縁を体感できる)
城下町萩は、阿武川下流の三角州上に形作られた「まち」です。
実はこの三角州、平坦なようで微妙な起伏があります。
例えば、三角州北側には砂丘が広がり、川に面しては川が運んだ土砂が積もった自然堤防が形作られていて、少し標高が高くなっています。
浜崎においては、「吹き上げ」と呼ばれる坂道をはじめ各所に緩やかな坂道があり、砂丘の「縁(へり)」を体感することができます。
水に恵まれ、時には恵まれすぎて洪水にみまわれた三角州の上の城下町ですが、人々は、この少し標高の高い所に住んで、出水の被害をまぬかれてきました。
(三角州の微妙な地形)
一方、市役所や明倫小学校のある萩三角州中央辺りには、標高が2メートルに満たない低地が広がっています。
その一帯は、永くハス田や水田として利用されていました。
それは、大雨の出水に備えて、ハス田や水田として維持する必要がある場所でもありました。
そのような場所を「遊水池」と呼びます。
かつて三角州内では、大雨による大量の出水は、一旦この「遊水池」にあふれていました。
そのことで、そこよりも少し標高の高い一帯は洪水をまぬかれることができました。
阿武川の上流にダムが建設されるまでは、ハス田や水田は、農地としてだけではなく、大雨の出水を調整する場所としてとても重要な役割を担っていました。
(萩三角州の中央辺りに広がる低地は長く遊水池として維持された) (萩三角州中央辺りのハス田や水田、ハスは萩の特産だった)
さてそれでは、「遊水池」の水は、どのように川や海に流出させたのでしょうか。
実は、そのために大変役立ったのが、人工の溝川である「新堀川」であり「藍場川(上流部では大溝)」です。
いずれも、江戸時代の1680年代と1740年代に、三角州内の排水を目的の一つとして築かれたものです。
(1680年代に整備された新堀川) (1740年代に整備された大溝・藍場川)
さらに、砂が集まって狭くなる松本川の河口に滞る出水を、いち早く日本海に流出させる「姥倉運河」も設けられました。
これも人工の運河で、江戸時代終わり頃の1855年に、2年余の工事を経て完成ました。
城下町に住む人々は、水に恵まれた「まち」において、土地の発する声を聞き分け、土地の特徴に合せて、工夫を凝らして水と上手に共生してきたのです。
(江戸時代終わり頃の城下町絵図に描かれた姥倉運河、右上に表現) (現在の姥倉運河)
(橋本川の出水を日本海に流出させるために、1920年代に整備された疎水運河)
日本の多くの都市では、高度経済成長期に、排水を担ってきた溝川が暗渠となり、道路や駐車場になりました。
ところが萩においては、新堀川や藍場川は、現在でもほとんどが蓋で覆われた暗渠になっていません。
私たちは、城下の人々が土地の発する声を聞いてきた歴史の跡を、身近に目の当たりに見ることができます。
それは大変に貴重なことなのです。
(180715寄稿 清 水)
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「はまかぜだより」30 「萩のかまぼこ、その2」
http://hagihaku.exblog.jp/32407283/
2022-10-21T18:51:00+09:00
2022-12-08T17:41:22+09:00
2022-10-21T18:51:32+09:00
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くらしのやかたより
江戸時代に萩城下に住まいした奥村早太(隼大)という藩士が、明治時代になって描いた萩の風物画が伝わっています。
描かれた人物の身なりなどから、江戸時代の城下の様子を描いたとものと考えられます。
その中に、カマボコを作っていると考えられる人物を描いた部分があります。
(萩の風物画の一部、江戸時代のカマボコつくりの様子)
細部を見ていくと、一人は魚をさばいているようで、一人は包丁2丁を両手に持って何か(魚の切り身?)を叩いているようです。
また、もう一人は長いレンギ(すりこ木)で擂り鉢(一部の地域では方言でカガチと呼びます)の中の何か(細かくした魚肉?)を擂り合わせて練っているように見えます。
いかがでしょうか。
(魚のシゴ・叩き・摺り・練りの様子)
30年ほど前、Oかまぼこ店のYさんに、かまぼこ作りの工程を教えていただいたことがあります。
それによると、この絵画に描かれているのは、「シゴ」、「叩き」「擂り・練り」の工程になります。
「シゴ」というのは、処理するとか始末するといった意味の山陰地方の方言です。
ここでは、かまぼこを製造するための下処理というような意味合いになります。
魚の頭を取って三枚におろし、魚の身(魚肉)と骨や皮とを分離する作業です。
その身を包丁で細かくする作業がタタキです。
これをさらに細かくするために、現在はミンチ機(機械)が用いられています。
続く「擂り・練り」の工程には、かつては、長く太いレンギと大きな擂り鉢(カガチ)が用いられました。
レンギは方言ですりこ木のことですが、現在伝わっている、かつてかまぼこ作りに用いられたレンギは、長さが2メートルほどあります。
作業場の梁からこれを吊り下げ、体重をかけて練っていたそうです。
(作業場の一画に設置されたかまぼこ用の擂潰機〔らいかいき〕)
摺り鉢をカガチと呼ぶ地域があることは先に触れましたが、語源は良質な焼き物の産地名であるカラツとされています。
かまぼこ製造に用いられた大きな擂り鉢は、残念ながら伝わっていません。
現在、この工程は機械化されています。
萩地域では、昭和30年(1955)ころから、かまぼこ用の擂潰機(らいかいき)が導入されたと聞きます。
(出生地萩浜崎新町中ノ町 柳屋米蔵 同 元助 と刻まれた灯篭)
ちなみに、大正15年(1926)にこの擂潰機を考案し、現在、練り製品加工機械の製造で業界一位を誇るのは、宇部市の株式会社ヤナギヤです。
創業者柳屋元助の父柳屋米蔵は、浜崎新町中丁の出生とされます。
住吉神社拝殿の前に、両名の名前が刻まれた、昭和六年(1931)二月に奉納された大きな灯篭があります。
(つづく)
(180220寄稿 清水満幸)
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