2015年 03月 29日 ( 3 )
海を拓いた萩の人々、17 ~ 三見浦から壱州対州への羽魚網出漁の3 ~
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羽魚網漁の漁期は、9月から12月の初め頃まででした。
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操業は月のない風があるような夜間で(その方が網を悟られないとのこと)、汽船の行きかう対馬海況の只中に流し刺し網を流し、巨大なカジキマグロを漁獲しました。
網の位置を示す大きな灯樽と呼ばれる浮標(樽)を展示しています。
大規模な刺し網であったことが想像できます。
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大正15年(1926)の三見浦「改良丸」の魚勘定帳です。
9月から12月初旬までの、問屋の泉屋への水揚げと、その間に問屋から求めた食糧などの物資の代価が記されています。
これによると、改良丸においては、94本の各種羽魚(カジキマグロ)と少なくない数の鮫を漁獲していたことが分かります。
三見浦から20数隻が出漁していましたので、単純に計算すると、大正15年の漁期には、1000本!に及ぶ羽魚がこの海域で漁獲されていたことになります。
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漁獲されていた羽魚(カジキマグロ)が、いかに大きなものであったかを示す資料です。
三見浦の寺院に、豊漁感謝と祈願で奉納されていた奉納額です。
昭和11年(1936)に奉納されたものです。
「吻」と呼ばれるカジキマグロのクチバシ状の部分が、切り取られて板面に固定されています。
左から、白羽魚(シロカジキ?)370斤、ツン魚(メカジキ)580斤、赤羽魚(マカジキ)320斤の吻です。
580斤ですよ580斤! 吻の長さは1m!
1斤は600gですから、580斤=348㎏の巨大カジキマグロが漁獲されていたことが分かります。

三見浦では一時期、壱州対州だけでなく台湾近海まで出漁し、高雄や蘇澳の港を基地に羽魚網漁を操業、広く遠く海を拓いていきました。

・・・ つづく ・・・   (清水)
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by hagihaku | 2015-03-29 15:11 | くらしのやかたより
海を拓いた萩の人々、16 ~ 三見浦から壱州対州への羽魚網出漁の2 ~
壱岐対馬近海において、羽魚網漁を行うのは、もっぱら三見浦と壱岐勝本港の漁船だったそうです。
三見浦から20数隻、勝本からも20数隻、多い時には50隻に及ぶ羽魚網漁船が操業していたとされます。
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大正9年(1920)、勝本港の一部、城山の麓辺りの船溜まりを俯瞰撮影した絵葉書です。
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「長靴を履いた足を投げ出したような」、と表現される舳先の漁船が認められます。
三見浦の漁船かもしれません。
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勝本港では、三見浦の船団が寄港していたことが、現在も良く伝えられています。
あるお宅には、寄港していた三見の人々が贈ったという石灯籠がありました。
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道の両側に、二階建ての家屋が壁を接して立ち並ぶ勝本浦の町なみです。
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残念ながら、魚問屋は随分昔に経営を止めており、三見船団が出漁していたころの資料は確認できませんでした。
当時の問屋もほとんどが改築されていましたが、大久保本店の建物が、元魚問屋の存在感を伝えていました。
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三見の三田八幡宮境内にある神社改修を記録する石碑です。
大正11年(1922)の改修時のもので、石碑には改修費用の寄付者の名前が刻まれています。
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その中に、当時、三見浦の船団と関わりのあった魚問屋の名前が認められます。
壱岐勝本港の泉屋、表谷、唐津屋、大久保支店(魚問屋は他にも多くあったそうですが、水揚げはこの4問屋だったそうです)、対馬厳原港の一色から、多額の寄付があったことが分かります。
ちなみに、三見船団で最も多くの船が羽魚を水揚げしていた問屋は、泉屋だったそうです。

・・・ つづく ・・・   (清水)
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by hagihaku | 2015-03-29 13:46 | くらしのやかたより
海を拓いた萩の人々、15 ~ 萩市三見から壱州対州への羽魚網出漁の1 ~
3月29日(日)、萩では朝方雨がふりましたが、現在は穏やかな晴天となっています。
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遠く海を拓いて行った萩の人々をご紹介します。
萩市三見浦から壱岐・対馬への、カジキマグロ漁での出漁についてです。
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萩地域では、以前は壱岐・対馬を壱州・対州と呼んでいました。
三見浦からは、明治30年代半ば以降、戦前ころまで、この壱州・対州へ羽魚(ハイオ=カジキマグロ)漁で出漁していました。
網目が1尺もあるような大型の流し刺し網を用いて羽魚を漁獲していました。
多い時には、三見浦から20数隻の船団が出漁していたといいます。
壱岐勝本港を基地として、壱岐と対馬の間の七里ヶ瀬辺りを漁場として操業しました。
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獲れた羽魚は、壱岐勝本港や対馬厳原の魚問屋に水揚げしていました。
壱岐勝本港には、泉屋、表谷、唐津屋、大久保支店、対馬厳原港には一色といった魚問屋があったということです。
水揚げの多い船には、問屋から大漁旗や優漁旗が贈られました。
画像は、丸に「い」の組、泉屋に水揚げする三見浦の宝松丸に、泉屋より贈られた優漁旗と考えられます。
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念願かなって2012年の6月に壱岐勝本港を訪ねました。
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港近くの、とある神社の拝殿に掲げられた絵馬です。
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大正15年(1926)年の漁期における大漁に感謝して、地元勝本港の漁船が奉納した絵馬です。
ご注目いただきたいのは、その舳先に掲げられたフライキです。
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いかがでしょうか?
冒頭にご紹介した展示大漁旗が描かれています。

三見浦の皆さんが、壱岐対馬近海の漁場開拓に携わったことについて、もう少しご紹介しましょう。

・・・ つづく ・・・   (清水)
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by hagihaku | 2015-03-29 12:41 | くらしのやかたより