カテゴリ:企画展示室より( 118 )
始まりました!
昨日11月2日より、「井上剣花坊と川柳」展が始まりました。

b0076096_1742652.jpg剣花坊は、明治3年(1870)に市内江向で誕生しました。
小学校教員、新聞記者を経て、川柳会と川柳雑誌を主宰し、遊びに陥っていた川柳の改革に努めました。近代川柳中興の祖とされています。

昭和9年(1934)に亡くなるまで、3000を超す川柳と、川柳改革を進める多くの論文を発表しています。





剣花坊は、日常を、易しいことばでストレートに川柳にうたって支持されました。

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 「どっしりと坐る一万二千尺」                                
 「親といふ宝は誰も持っている」
 「何よりも母の乳房は甘かりし」
 「何万の魚の中の初鰹」                                           
           

反骨・反権力の川柳も多く残しています。                             

 「大阪城 この石を一つ運ぶに無数の死」
 「支那はまだ取れず醍醐の花の雲」
 「自動車で憎まれにくる花の山」


思わず「ニヤリ」としてしまう川柳もあります。

 「猫の皮金のなくなる音をさせ」
 「雪舟の筆と称する竹に猫」
 「缶詰になっては横にもう這えず」


剣花坊は、「新川柳に対する私の主義主張」の中で、吉田松陰や高杉晋作の思想や行動に共鳴をし、彼らと同じく自由・平等主義であり尊皇主義でもあると述べています。

                                               
 「咳ひとつ聞こえぬ中を天皇旗」
 「民艸(たみくさ)のスグの真上の紫宸殿」

それぞれ大正天皇、昭和天皇の即位の直後に作られた川柳です。
皇室への畏敬が示されています。

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剣花坊は、「私は長州に生まれました」ということを誇りとし、
吉田松陰や高杉晋作への共感を、川柳改革のエネルギーとしました。

今回は、ご子孫宅や近しい親戚宅に伝えられた代表的な川柳を展示しています。

剣花坊川柳のエッセンスを感じ取っていただければ幸いです。
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by hagihaku | 2006-11-03 17:23 | 企画展示室より
「長州ファイブ展」閉幕&撤収作業
b0076096_1812557.jpg7月1日に開幕した「長州ファイブ展」は昨日で無事終了。多くの方にご来館いただき、担当者の道迫からこの場をお借りして御礼申し上げます。まことにありがとうございました。

さて今日の仕事。企画展示室では次回の「室町文化の精華―大本山相国寺と金閣・銀閣の名宝―」展に向け、迅速に撤収作業を行いました。また展示し終わったモノも収蔵庫の所定位置に収納。毎度ながら、これで展示はもう終わりかと思うと、じつにあっけないものです。

そして今日は企画展示室のみならず、萩再発見ギャラリーの展示がえも同時並行。さらにはエントランスホールや長屋門でも作業が行われました。しかし、これだけの作業だと学芸班スタッフだけではとうてい無理な話です。

ここでおおきな力を貸していただいたのが、われらがNPO萩まちじゅう博物館の皆さんです。暑いなかの重労働、たいへんおつかれさまでした。とともに、いつもながらありがとうございました。

ちなみにつぎなる展覧会には樋口副館長がご登場!道迫はバトンタッチしてしばし充電期間(次々々回の展覧会準備)のほうに入らせていただきます。

(道迫)
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by hagihaku | 2006-09-04 18:16 | 企画展示室より
シリーズ最後は伊藤博文―「長州ファイブ展」より⑪―
はやいもので「長州ファイブ展」の会期もあと3日となりました。なんだかんだ10回も続いたこのブログですが、最後は展覧会メインの伊藤博文で締めくくりたいと思います。

b0076096_19474729.jpgこの伊藤の写真は、吉田松陰の兄の杉民治のご子孫から萩市に寄贈されたものです。しかも裏面をみると、伊藤の自筆で「明治二十九年 天長節撮影」と書かれ、1896年11月3日に撮影されたことがわかります。ちなみにこの写真を撮ったのは、東京芝新シ橋(あたらしばし)角に写真館を開いていた明治時代の代表的な写真師、丸木利陽(りよう)です。

さてこのころの伊藤はというと、約2ヶ月前の明治29年8月に第二次伊藤内閣を総辞職したばかりでした。第二次内閣では明治27年7月、駐英公使の青木周蔵の尽力により日英通商航海条約に調印。幕末期以来の懸案であった不平等条約のうち、領事裁判権の撤廃、関税自主権の一部回復に成功しました。また同年8月に清国との間で日清戦争を開戦し、翌年勝利して下関条約を締結しています。

b0076096_1951663.jpg日本は明治37~38年の日露戦争を経て、朝鮮半島、中国大陸への侵略の道を歩みます。そこでご覧いただきたいのが、韓国(大韓帝国)の純宗(じゅんそう/スンジョン=隆煕皇帝)が巡幸中の1909年(明治42)2月に撮影された右側の集合写真です(『伊藤博文伝』より)。

展示品の「伊藤博文・李完用・趙重應・宋秉畯寄書」(春風文庫蔵)とともに、伊藤と韓国親日派政権との接近を物語る史料であり、それへの反発が1909年10月の安重根による伊藤暗殺を引き起こしたのだと想像できます。

幕末から明治にかけて活躍した5人のヒーローこと「長州ファイブ」。彼らの日本の近代化に対する貢献度の高さからこの呼称が生み出され、ついには映画にまでなったわけですが、今回私が伊藤についてあえてこういう記事を書いたのは、いい面をみるだけでは真の歴史とはいえないと考えるからです。

このシリーズ、当館研究員の道迫が担当いたしました。短い期間でしたが、これをもって終了いたします。事実に誤りがあるか、もしくはご意見、ご感想などございましたら、とりあえずコメントをお寄せいただけたら幸いです。最後までお読みいただいた方、お付き合いのほどありがとうございました(礼)。

(道迫)
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by hagihaku | 2006-08-31 19:57 | 企画展示室より
「生きたる器械」(?)という言葉の意味―「長州ファイブ展」より(特別編)―
前回の山尾庸三のところで、最近知られるようになった「生きたる器械」という言葉に触れました。そこで今回は特別編として、補足説明のついでに私見を述べさせていただきます。

b0076096_19321012.jpg展示室に入るとすぐに、右の写真のような高さ2mほどの四角柱が設置してあります。この[「長州ファイブ」いまから海を渡ります]と銘打った立体パネルは、文久3年(1863)5月11日、すなわち横浜港を発つ前日、5人が連名で麻田公輔(周布政之助)や桂小五郎(木戸孝允)らに宛てた「告別書」とでも呼ぶべき書簡を、現代語訳つきで紹介したものです。

現代語訳と解説は一坂特別学芸員によるもので、展示デザイナーの南野さんのアイデアでこういう形に仕上がりました。裏話になりますが、予算と時間の都合で書簡の原本を借りられなかったため、いっそのこと、ミミズの這ったような筆跡と現代語訳を照らし合わせてじっくり読んでいただこうではないか、ということから生み出されたいわば苦肉の策だったのです。私こと道迫含め、〈三人寄れば…〉の典型的な例となりました(笑)。

b0076096_193479.jpg筆者は5人の最年長、リーダー格といわれる井上馨で、彼の半生記である『井上伯伝』に、石版印刷という特殊な技術で作られた原本と見違えるほどの複製が収録されています。これを南野さんがせっせとページをめくりながらデータ化して合成したら、なんと総延長5m級の超長文であることが実感できるようになりました。展示室でグルッと一周見て廻るだけでも、たぶん本腰入れて読んだら30分ぐらいかかりそうです(左の写真は『井上伯伝』に収められている複製で、5人の連署の部分)。

ここには、村田蔵六(大村益次郎)を保証人として藩の御用金1万両を無断で担保に入れ、横浜の商人伊豆倉から渡航資金5千両を借用するに至った彼らの、切羽詰まった心情がつづられています。そして最後に、この費用は飲み食いなどに使うわけではない、「生きたる器械」を買ったつもりで許してほしいと述べています。おそらく、自分たちが英国で西洋の知識や技術を身に付けて帰国したあかつきには力一杯働きますので勘弁してください!といいたかったのでしょう。

b0076096_19385273.jpgそこで「生きたる器械」。まずこれは、私は「生きた器械」の誤りだろうと考えます。最近、『井上伯伝』を改めて読んで気付いたのですが、右の写真のように、井上は明らかに「生た器械」(「た」は変体仮名の「堂」をあてる)と書いています。『井上伯伝』の著者中原邦平が、活字も同書に掲載してくれたのはありがたいのですが、中原は「生タル器械」と起こしています。おそらく中原は文語体のクセで、つい「タル」としてしまったのでしょう。「生きた器械」というと口語体ですから、明治人の中原にとっては不自然だったのでしょうね。

つぎに、なぜ井上は「生きた器械」と書いたのでしょうか。ちなみに周布政之助は、同じような意味で「人の器械」という表現を使ったようです(『周布政之助伝』)。どうやらこの当時はまだ、こうとしか適当な言い回しがなかったのだろうと推測されます。

私たち現代人は、山尾や井上勝のような人物を「技術者」とごく普通に言い表します。しかし「技術」という単語自体は、近代以降の造語であって、江戸時代にはありませんでした。「技術」という便利な単語を作ってくれたのは、津和野藩出身の西周(にしあまね)とされています。

西は著書『百学連環』(明治3年ごろの私塾育英社での講述録)で、西洋から日本に入ってきたあらゆる学術用語の翻訳を行いました。しかし翻訳といっても、あてはまる日本語がなければ自分で作らねばなりませんでした。

『日本国語大辞典』の「技術」の項を引くと、「物を取り扱ったり、事を処理したりする方法や手段」という語彙説明のあとに、用例として『百学連環』の一節が紹介してあります。

「Mechanical Art(器械技) and Liberal Art(上品芸)原語に従うときは則ち器械の術、又上品の術と云ふ意なれど、<略>技術、芸術と訳して可なるべし。技は支体を労するの字義なれば、総て身体を動かす大工の如きもの是なり」

ちょっと話が難しくなったかもしれませんが、西周の説明で【「生きた器械」→技術】という図式がよくおわかりいただけたかと思います。このようにたった一つの語句を追及してみるだけでも、いろいろ連鎖的につながっていて興味が尽きません。

つい150年ほど前の人たちの苦労話でしたが、いかがだったでしょうか?とにかく、もし次の機会があったら、萩博では「生きた器械」と訂正して紹介するようにいたします(猛省)。

(道迫)
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by hagihaku | 2006-08-18 19:39 | 企画展示室より
日本工業界黎明期の司令塔山尾庸三―「長州ファイブ展」より⑩―
b0076096_1936443.jpg英国密航後、ロンドンからグラスゴーに移り、日中ネピア造船所で働きながら技術を身に付け、夜間学校にも通ったという山尾庸三。転地にあたっては旅費に窮していることを薩摩藩英国密航留学生の町田久成(ひさなり)に相談し、資金援助を受けたというエピソードも伝わっています。この顔写真は珍しい部類に入ると思いますが、30代後半から40代前半、工部大輔(たいふ)在任中のものと推定される当館所蔵の名刺サイズのものです。

現代日本は「大学全入時代」といわれるように、「苦学生」という言葉はほとんど死語のようです。歴史学を専攻する者が特定人物に感情移入をすることは禁物ですが、やはり山尾のように苦労した人はひと味もふた味も違います!ハングリー精神はもはや、いまも読み継がれる『あしたのジョー』や『巨人の星』など、マンガの世界にしか生きていないのでしょうか?

ちょっと脱線しすぎましたが、ネピア造船所で聴覚障害をもつ職人が健常者以上に生き生きと働く姿に感銘を受けた山尾が、日本の聾唖(ろうあ)教育の草分け的役割を担ったという話などを知ると、ますます偉い人だなぁと感心しきっています。

さて前置きが長くなりましたが、今回、実はこの山尾が一番展示で悩んだ人物です。というのも、彼の仕事を端的に紹介できるモノがなかなか見つからないからです。別に映画は関係ないですが、反対にモノさえあったなら、この人を主役にしたかったぐらいです。

その背景には、5人のうち伊藤博文と井上馨は別として、彼はたしかに「生きたる器械」、すなわち技術者になって日本に帰ってきたのですが、井上勝や遠藤謹助のように、ある特定分野一筋に邁進したわけでないことが影響しているのだろうと思われます。逆にいえば山尾は、井上勝や、つぎに紹介する渡辺蒿蔵(こうぞう)などの技術者を、高所から自在に操る司令塔だったというほうがふさわしいのかもしれません。

b0076096_19391360.jpg写真は、渡辺蒿蔵のご子孫から近年当館に寄贈していただいた資料群に入っていた電報です。明治8年(1875)1月、工部大輔の山尾が山口から長崎製作所(のちの長崎造船局)の渡辺に送ったもので、「マンジュマル」(運送船満珠丸?)に関する「キド」(木戸孝允)宛の書状を、大阪府参事の「ウチノウミ」(内海忠勝)に送るようにと指示しています。長崎製作所は工部省に属していましたので、同じ長州出身の山尾が上司で、渡辺が部下だったというわけです。なお渡辺は当時、天野清三郎と称していました。

山尾は明治13年(1880)に工部卿(きょう)に昇進しましたが、政府は財政難のため、工部省と大蔵省の勧業機構を統合・縮小する必要に迫られていました。そこで政府は翌年、農商務省を開設し、官営工場の民間への払い下げを段階的に進めることに決して、これにともない山尾は太政官の参事院議官に転じて財務部長となりました。そして同18年、工部省は内閣制度の発足により廃止されています。

明治3年の設置以来、工部省はわずか15年間存在したにすぎませんが、工学寮(のちの工部大学校、東京大学工学部の前身)の創設を含め、わが国の工業界黎明(れいめい)期に最大の尽力を払ったのが山尾であることはいうまでもありません。近代国家に不可欠な鉄道・造船・鉱山・製鉄・電信そのほか、基盤産業の整備・発展に対する彼の功績はきわめて偉大であり、「明治の工業立国の父」と呼ばれるゆえんは、まさにここにあるのだろうと私は考えています。

(道迫)
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by hagihaku | 2006-08-16 19:52 | 企画展示室より
日本の近代造幣と遠藤謹助―「長州ファイブ展」より⑨―
今年は梅雨が長かったのでそうでもないのかなぁ、なんて気楽に考えていたら、やっぱり暑いですねー。お盆まっただ中ですが、年中無休の萩博は、スタッフ一同元気に皆様のご来館をお待ちしております!

b0076096_18115480.jpg余談はさておき、造幣局の桜並木の「通り抜け」を発案したことで有名な遠藤謹助。しかし実際のところ、彼がどういう生い立ちをしたのか、また造幣局でどういう仕事をしたのか、わからないことだらけの人物だというのが、今回の展示の準備を通してよくわかった点です。

ただ最近は「造幣の父」というコピーが出回っているようですが、私はこれにはちょっと違和感があります。だって、もしそうだとしたら、江戸時代に小判が使われていたのはおかしいし、起源をさかのぼれば、江戸よりもっと以前から貨幣は使われていたのですから…。

とにもかくにも、彼にあえてコピーを付けるなら、「近代造幣の父」というぐらいは許されるのではないでしょうか。それを垣間見れるのが、写真のような銅銭、いわゆるコインです。金貨・銀貨も造っていましたが、写真は遠藤が造幣局長在任中に造られた「龍紋二銭銅貨」で、裏面に施された精緻(せいち)な龍の紋様が特長となっています。でも「銭」(せん)といっても、戦後世代には馴染みがないはず。「円」の100分の1が1銭で、戦後になって廃止されています。b0076096_1812953.jpg

ところで「鉄道の父」の井上勝が、お雇い外国人はコストがかかって不経済、との思いから、いちはやく日本人鉄道技師を育てるため、大阪駅に「工技生養成所」を設立したのは有名です。遠藤は造幣の分野で、このことに通ずる仕事をしたといってもよいのかもしれません。

遠藤は明治3年(1870)、大蔵少輔(しょうゆう)兼造幣頭の井上馨の計らいで造幣権頭(ごんのかみ)に抜擢されました。そして翌4年、大阪に造幣寮(明治10年に造幣局と改称)が竣工し、同年5月、新価条例・造幣規則が制定され、わが国の近代的貨幣制度が確立しました。

しかし当時、造幣の指導にあたったのは、お雇い英国人技師トーマス・キンドルです。彼は明治3年に来日して造幣寮の首長となり、寮の建設と機械の据え付けに尽力し、通貨の品位・量目については銀本位制とすべきという意見書を提出しました。また造幣年報を発行して日本の貨幣の信用を高めることに努め、造幣関係の諸規則・諸制度の制定などに貢献したとされています(『明治維新人名辞典』参照)。

これに対して遠藤は、日本人技師だけの力で造幣を行うべきだという考えを抱き、造幣学研究会を立ち上げるなど、日本人の造幣技術者養成に努めました。

その後、キンドルとの対立からいったん大蔵大丞(だいじょう)に転じましたが、明治14年(1881)に造幣局に復帰して局長となりました。以後、11年余にわたって同職をつとめ、洋式新貨幣の製造に成功し、わが国の造幣史に新たな1ページを刻んでいます。

だらだらと長くなってしまいましたが、私が遠藤のコピーを「近代造幣の父」に修正させてほしい理由が、少しでもお判りいただけましたでしょうか?

(道迫)
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by hagihaku | 2006-08-14 17:56 | 企画展示室より
「鬼の目にも涙とやら…」by井上勝―「長州ファイブ展」より⑧―
b0076096_17125392.jpgいまや「鉄道の父」というコピーがすっかり定着した感のある井上勝。文久3年(1863)の英国密航の時点では、養子に入っていたため野村弥吉と称していました。一説には、実父の井上与四郎(勝行)が、もし密航がばれたら養子先に累がおよんで申し訳が立たない、と野村家に相談して井上家に復籍させ、帰国後に井上勝と名乗ったとされています。

それと井上、いや野村弥吉が、相当のノンベエだったことも皆さんけっこうご存知ですよね。これもまた一説によれば、ロンドン滞在中も飲んではだれかれかまわず食ってかかったことで、付いたあだ名が「ノムラン(呑乱)」だったそうな(笑)。

ともかく、これらの説の出典は、上田廣著『鉄道事始め―井上勝伝―』(井上勝伝復刻委員会、1993年)なのですが、いかんせん原典があいまいですので、あくまでそうだったのかも…、というぐらいの気持ちで読んだほうがよさそうですよ(写真の出典は『子爵井上勝君小傳』井上子爵銅像建設同志會、1915年)。

b0076096_17201444.jpgさて前置きが長くなりましたが、井上が気性の激しい性格だったというのは本当のようで、実は現在「長州ファイブ展」で展示している彼の書簡からも、そのことがはっきりと読みとれます。

これは明治32年(1899)9月10日、井上が東京から萩の杉民治(もと梅太郎、吉田松陰の兄)に送ったものです。冒頭では、久しぶりに萩に帰省したにもかかわらず、杉らに面会することなく東京に帰ったためひどく怒られたようで、たいへんなご無礼をしたと詫びをつづっています。

そのあとを読むと、萩滞在中に東光寺にお参りして「承泣(しょうきゅう)暫時(ざんじ)なりしは自然の情なるか、鬼の目にも涙とやら」というくだりが出てきます。つまり、藩主毛利家の墓所等々を前に、感極まってしばらく号泣したというのです。自分を指して「鬼の目にも涙」というなど、喜怒哀楽の激しかった一面がよく伝わってきます。

明治と改元されてすでに32年の歳月が流れ、往事を振り返って感涙にむせぶ井上の姿をほうふつとさせる実に生々しいこの書簡。井上のこの時の心中を察するに、日本の鉄道界発展のために全身全霊を捧げてきたわが身の来し方にも、深い感慨を覚えていたのかもしれませんね。

(道迫)
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by hagihaku | 2006-08-05 17:17 | 企画展示室より
東洋美術の保存につとめた井上馨―「長州ファイブ展」より⑦―
萩は今日まで夏祭りですから、余勢を駆ってついでにもう一本!行っちゃいましょう。

b0076096_18472479.jpg円山応挙の「雪中鴨図」(個人蔵)を8月1日から展示公開していますが、皆さんもうご覧いただけましたか?

くどいようですが、これは井上馨がかつて所蔵していたもので、今日に至るまでほとんど世に出ることのなかった作品です。残念ながら、いつ、どうやって彼が手に入れたかについてはわかっておりません。

写真が小さくてわかりにくいですが、目のパチクリした鴨の後ろ側に、実はもう一羽、首を背のほうにすぼめたのも描かれています。とにかく絵画的には実物を鑑賞していただくのが一番ですが、なぜあの井上馨が…と担当者の私自身、当初は不思議に感じていました。

というのも、井上といえばすぐに有名な「鹿鳴館」(ろくめいかん)が思い浮かぶからです。具体的には、「鹿鳴館外交」と世に喧伝されたように、明治12年(1879)に外務卿(がいむきょう)となって以来、同18年の初代外務大臣就任を経て同20年に辞職するまで、一貫して急進的な欧化主義政策を進めた人物、という先入観が影響しているのかもしれません。

ところが、そのように見なされがちな井上が日本や中国の美術作品を積極的に収集した背景には、明治初頭の古物破壊の風潮や、美術品の海外流出に対する強い危機感があったというのです。しかも井上は鑑賞眼に優れていたといわれ、長崎県知事在任中から書画・彫刻・陶磁器・漆器・銅器などを幅広く収集したそうです。

たしかに『世外井上公伝』所載の収集品リストをみると、日本は周文、雪舟、狩野探幽(たんゆう)、土佐光起(みつおき)、中国は「馬夏」と並称される馬遠(ばえん)・夏珪(かけい)、戴文進(たいぶんしん)などなど、日中画壇を代表する画家たちの作品がゴロゴロあったようです。当時としては無類の古美術品収集家だったといえるでしょう。

これまで井上については、人間の営みの基本である衣食住を急激に和式から洋風に変えようとしたイメージから、頭のてっぺんから足のつま先まで、すべて西洋一色に染まった人物であるかのように思っていました。しかし、こうして東洋の伝統美術保存に対する強い思いがあったことを知ると、日本人としてちょっと嬉しくなってしまいました。要するに井上は、単なる西洋かぶれではなかったんですね。

(道迫)
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by hagihaku | 2006-08-03 18:53 | 企画展示室より
「皆さん御免!ダダを言うても」by井上馨―「長州ファイブ展」より⑥―
b0076096_17155184.jpg茶道の嗜みをお持ちの方ならすぐにおわかりいただけると思いますが、かつては袱紗(ふくさ)とよばれる儀礼用の四角い絹布がよく使われました。風呂敷(ふろしき)同様、現代生活ではあまり馴染みのないものですが、今回紹介する袱紗はただの袱紗ではありません。なんと井上馨が、自筆で歌を書き入れたものなのです。

これは、62歳の井上が還暦(かんれき)を記念して知人の中西寿平に贈った袱紗です。富士に松竹梅というめでたい図柄があしらわれた品のよい縮緬(ちりめん)地に、「今日よりは元の赤子に還(かえ)りけり皆さん御免だだを言うても」と墨書しています。中西の縁者から旧郷土博物館時代に寄贈していただいたもので、「井上馨還暦所懐歌染袱紗」という表題で保管しています。

ところで井上の還暦は、数え年で61歳になる明治28年(1895)のはずですが、忙しかったためかこの年は機会を逃したようで、翌29年4月に山口で、同30年5月に東京の本邸でそれぞれ祝宴を開いています。袱紗には「六十二歳 馨」と署名していますので、明治29年(1896)の作であることがわかります。b0076096_1716498.jpg

そこで、井上が書いた歌をよくよく読んでみると、これは洒落や風刺をきかせた滑稽な短歌、すなわち狂歌(きょうか)、または戯言歌(ざれごとうた)とよぶべきものです。生まれた年の干支(えと)と同じ干支の年がくることを還暦といいますが、井上は「今日からもとの赤子に戻るので、みなさん、わがままいうけど許してね」と伝えたかったのでしょう(笑)。

ちなみに明治新政府の発足まもないころ、大蔵省でともに困難に立ち向かった大隈重信は、後年、「井上氏は一たび起てば獅子の荒れた如く、前後左右を顧慮せずに進むから、能(よ)く人と衝突し、又人から誤解されて敵を作ることもあった」と回顧しています(『世外井上公伝』)。伊藤博文を含め、東京築地にあった大隈の私邸によく集ったことから「築地梁山泊」(つきじりょうざんぱく)と称された者同士ならではのコメントで、井上の押しの強い人柄がよく言い表されています。

この強引な性格が目立ちすぎるせいか、とかく財界での汚職事件ばかりが取り沙汰されることの多い井上馨。しかし、前回も触れた「長州三尊」中、書画骨董の鑑賞と狂歌においては伊藤・山県をはるかに凌いだといわれるように、今回紹介したような茶目っ気たっぷりの狂歌から想像すると、とてもユーモアに富んだ人だったんでしょうね。

(道迫)
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by hagihaku | 2006-08-03 17:23 | 企画展示室より
8/5「長州ファイブ展」ギャラリートーク時間帯変更について
現在開催中の「長州ファイブ展」については、毎週土曜日の13時30分からギャラリートーク(当館学芸員・研究員による展示解説)を行っております。

8月5日(土曜日)については、公式行事等の諸事情により、まことに勝手ながら時間帯を1時間繰り下げ、14時30分から開始させていただきます。

急な変更で、お客様にはご迷惑をおかけしてたいへん申し訳ございません。ご希望される方には心よりお詫び申し上げますとともに、よろしくご了承くださいますようお願い申し上げます。

当日担当の道迫(どうさこ)からお知らせさせていただきました。

(道迫)
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by hagihaku | 2006-08-03 09:14 | 企画展示室より