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秋の気配 萩地方では、梅雨が明けると「梅雨明け十日の晴天」と呼ばれる照り込みが続きます。 夏の土用前後には、「土用凪(どようなぎ)」と呼ばれるような海の穏やかな日も続きます。 このような中で南寄りの風が吹くと、山地の風下となる萩市では、フェーン現象で気温が上昇します。 この夏の8月6日(2017年)には、38.3℃という観測史上最高の気温を記録しました。 猛烈な気温を記録してから一週間後、お盆の入りは、晴天でしたが少ししのぎやすい天候となりました。 木陰や家の中を吹き抜ける風に、一息つかれた方も多いと思います。 このお盆前後に吹く北寄りの風を、萩地方では「ボンギタ(盆北)」と呼ぶ所があります。 この風が吹くと、気温はさほど上がらず、盛夏に比べると干し魚などの乾燥が進むようになるそうです。 その後、厳しい残暑の日もありますが、北寄りの風が吹く回数が増え、季節は少しずつ秋へと移っていきます。 ニイニイゼミに始まった蝉の声は、クマゼミやアブラゼミを経て、8月24日の地蔵盆・地蔵祭りの頃にはツクツクホウシが多くなり、やがて聞こえなくなります。 ちなみに、今年の蝉の初鳴きは、堀内地区の一部では、ニイニイゼミが6月29日、クマゼミが例年より早く7月9日でした。 (この14年間の平均は、ニイニイゼミが6月29.3日、クマゼミが7月14.8日です) 3月に飛来したツバメたちも、9月の声を聞くとそろそろ渡りの支度を始め、ある日、姿を見せなくなります。 (今年の堀内地区への飛来は3月29日、14年間の平均は3月24.5日。 初めて聞いたとか見たということは気を付けますが、聞こえなくなったり見られなくなったりということは、意識が及ばず記録を取っていません) そして、リュウキモ(琉球芋、九州では唐芋、一般的にはサツマイモ)やコイモ(里芋)、などが盛んに出回り、キンモクセイの香りが漂い始める頃には、秋のシラス漁が始まります。 特産のチリメンジャコの生産で、浜が活況を呈するようになります。 さて、皆さんにとって、秋の到来を感じる目安は何でしょうか。 (170814投稿 清水) #
by hagihaku
| 2022-10-18 16:37
| くらしのやかたより
果実問屋の引札 以前この欄で、浜崎本町の旧山中家に伝えられた明治期(明治三十年代~四十年代)の広告チラシ「引札」についてご紹介したことがあります。 引札は、店や商品の広告のために、商店や問屋などが取引先に配った印刷物です。 新聞広告や商業ポスターなどが一般的になる大正期までは、広告宣伝の手段の一つとして盛んに利用されました。 山中家には、航路で結ばれていた山陰方面から瀬戸内海方面・神戸・大阪・京都にかけての引札二百数十枚が伝えられていました。 その多くは海産物の問屋からもたらされたものでした。 それは、山中家が商いの中で、萩地域の海産物を集めて各方面の問屋に送っていたことを示すものと考えられます。 この伝えられた引札の中には、果実問屋のものが八点含まれています。 萩地域から送り出される果物といえば、明治九年(一八七六)に全国で初めて経済栽培に取り組んだ、萩特産の夏みかんを挙げることができます。 山中家では、海産物の他に夏みかんも取り扱っていたと考えられます。 この夏みかんは、当初は夏(春以降、夏にかけて)に食べることができるダイダイ(橙)ということでナツダイダイ(夏橙)と呼ばれていました。 果物として食べるようになる以前、絞った果汁を酢として使っていたころには、スダイダイ(酢橙)とともに、単にダイダイと呼ばれていたようです。 これが夏みかんと呼ばれるようになるのは、明治十八年(一八八五)のことです。 この年、橋本町で雑貨商を営む山中三吉らは、大阪天満市場の問屋小林市之助を訪ねてナツダイダイの出荷と販路開拓を相談します。 その際に、「こちらではダイダイ(代々)を食べるとヨイヨイ(中風症)になると言って嫌うから、ナツミカンに改めてはどうか」とアドバイスを受けます。 そしてそれ以来、長州萩が本場の夏みかんとして広く販売されることになります。 実は、山中家伝来の引札の中に、この夏みかんの名付け親ともいえる果実青物問屋の小林市之助から送られてきた引札が含まれています。 鯛にまたがった恵比須様がやってきて、七福神が揃うというめでたい図柄です。 彩色の美しい引札ですが、夏みかんの上方での販路拡大が、萩の人や町を支えてきたことを示す貴重な資料でもあります。 (170415投稿 清水) #
by hagihaku
| 2022-09-16 18:10
| くらしのやかたより
旧暦のお盆 江戸時代の終り頃に編まれた地誌に『八江萩名所図画』があります。 萩の町の様子について、木版画の挿絵を添えて、目に見える形で伝えてくれる資料です。 その中に、「諸町盆踊り」の図があります。 それは、江戸時代の城下町に、盆の間に盆踊りを踊る風習があったことを伝えています。 (城下の盆踊りの様子を伝える「諸町盆踊」の図) お盆は、精霊(しょうりょう)(先祖の霊など)を迎えて祀り(まつり)、またそれを送る行事です。 もともとは、旧暦の7月15日を中心とした行事でした。 明治6年(1873)以降、日本では、旧暦(太陰暦、月の運行を基準にした暦)に代わって新暦(太陽暦、太陽の運行を基準にした暦)が採用されました。 それにともない、萩地域では、お盆は月遅れの8月15日を中心に行われる行事となりました。 お盆の期間については、正月と同様に、地域により、また家により認識が異なるようです。萩地域でも、8月7日(かつては旧暦7月7日、七夕でもあります)をナヌカビ(七日日)とかナノカボン(七日盆)と呼び、この日を盆の始まりと意識するような民俗が伝えられていました。 現在でも、この日に仏具の掃除をするとか、墓や墓へと続く道の掃除をするという方があります。 『八江萩名所図画』には、提灯の灯りのもと、老若男女多くの人たちが群舞している様子が描かれています。 中には笠や頭巾で顔を隠している人が認められます。 これが、盆踊りを踊る際の趣向なのかもしれませんが、変装した人が踊りに加わる盆踊りは各地で散見されます。 萩地域のある地区においては、13日頃から、地区の人々が新盆の家(前年の盆から今年の盆までの間に亡くなった方のある家)を訪ね巡って盆踊りを踊っていたとされます。 変装は、盆に還ってきた先祖の御霊や、この世のものではないもの(例えば精霊など)との交流を象徴的に示しているのかもしれません。 先にも記しましたが、かつてのお盆は、旧暦の7月15日を中心とした行事でした。 旧暦の15日は、月齢が15日の望月ということです。 晴天であれば、宵の口から昇る月が淡く辺りを照らし、その中で盆踊りは踊られていたと考えられます。 各地で、月明かりの中、共に盆踊りを踊り先祖の御霊を慰めていた情景が目に浮かびます。 ちなみに、住吉祭りが8月1日から3日にかけて執り行われるようになるのは、明治43年(1910)のことです。 それまでは、旧暦の6月27日、28日が例祭日で、前日の26日には、「通り町(住吉祭りに奉仕する城下の町内)」において夜見世と呼ばれる催しが行われていました。 (160803投稿、清水) ※ 夜見世とは、開け放った商店のミセノマや民家の座敷に、わざわざ制作した造り物や生け花、書画、骨董などを飾り付け、道行く人に披露す る(見せる)ものです。 浜崎伝建おたから博物館における「まち」や家々の開放や「おたから」の披露は、この伝統を引き継いでいるともいえます。 ※ 漁業に携わる人が多い地域では、漁業に深いかかわりのある潮の満ち引きと月の満ち欠けとが関連しているため、比較的最近まで、旧暦で行 事が行われる傾向がありました。 お盆も旧歴で行われることがあったそうです。 現在でも、萩市越ヶ浜の厳島神社の祭礼は、旧暦6月17日を中心に執り行われています。 そのため、時々、住吉祭りの期間中の催行となることがあります。 #
by hagihaku
| 2022-09-16 16:11
| くらしのやかたより
看板 看板は、商品や商店を広告する標識です。 その商店で取り扱っている商品や店の名前が良く分かるように、建物の内外に掲げられます。 昔から商いが盛んであった浜崎では、古い木製の看板を目にすることができます。 店の内に掲げられた木製看板の中には、黒漆を塗った板材に金色の文字が浮き上がるような豪華なものがあります。 額彫り(文字の表面がカマボコ状に盛り上がる彫り方)や石屋彫り(文字部分を石材加工するように深く彫り込む彫り方)の文字が、金泥や金箔で仕上げてある手の込んだ看板も見ることができます。 特約店(メーカーとの間で商品取り扱いについて特別の約束を交わしている卸商、代理店)のために、わざわざ商店名を入れて特別に制作されたものもあります。 浜崎における活発な商いを示す貴重な資料でもあります。 木製の看板は、江戸時代の初めに登場し発達したといわれています。 浜崎の古い写真には、庇屋根の上や軒下に、通りに対して直角に突き出すように掲げられている大型縦長の吊り下げ式の看板が認められます。 これらの木製看板の多くは、風雨に当っても腐らないように厚い欅(ケヤキ)の板が用いられました。 看板の一部については、閉店時に外されて店の中に取り込まれるものがあったようです。 現在、飲食店等で閉店のことを「看板です」というのはこの名残で、「看板を取り外して店内に入れる時間になった」ことを示すものです。 明治時代の中頃から昭和40年代中ごろ(1970年頃)にかけては、金属製の看板が屋外広告に良く用いられました。 表面にガラス質の釉薬がかかっているように見えることから、一般的にホーロー看板と呼ばれます。 耐久性があり長く広告が可能でした。 鉄道やバス路線の沿線や、人の目線が集まるような所に掲示されました。 ホーロー看板というと、某殺虫剤メーカーを思い出される方も多いかと思います。 ちなみに蚊取り線香の材料に、かつては除虫菊の花が用いられていました。 萩沖の相島では、昭和初年頃から昭和40年代にかけて、期除虫菊の栽培が盛んでした。 花の時季(5月)には、萩本土から、白い花が咲きそろう島の台上が遠望されたといいます。 (160430寄稿 清水) #
by hagihaku
| 2022-09-07 14:42
| くらしのやかたより
「ほーこさん・ほうこ人形」と雛の節句 萩地域においては、月遅れの4月3日に、雛の節句(桃の節句・雛祭り)を祝います。 全国的には、この日に人形を飾り、桃花や菱餅(ひしもち)を供えて白酒をいただくようになったのは、江戸時代初めのこととされます。 一般の家庭で雛祭りが盛んに行われるようになるのは、一部の家を除き、更に時代が下って明治時代以降のこととされます。 一般の家庭で飾られる雛人形は、初めは紙製のものが多く見られました。 後にこれが布製となり、単なる人形(ひとがた、人の形に似せて作ったもの)から公家(くげ)の正装の座姿へと変わります。 そして江戸時代中頃より、現在見られるように、細工の細かい内裏雛(だいりびな)や調度品などが飾られるようになるようです。 人形の姿形は、時代や地域により少しずつ異なります。 また男女雛の位置も明治時代までは現在と逆で、向って右側が男雛(おびな)、左が女雛(めびな)でした。 萩地域においては、「ほーこさん」とか「ほーこ人形」と呼ばれる禿髪(かむろがみ、髪を短く切りそろえて垂らした子供の髪形)の人形がしばしば飾られます。 「這子」の字があてられることが多いこの「ほーこさん・ほーこ人形」は、一般的に、誕生した女児の初節句の祝いに贈られます。 かつては、同じくお祝いに贈られた産着を着せて、雛人形などとともに飾られました。 「ほーこさん・ほーこ人形」や雛人形などの人形は、生児の身代わりとなるもので、生児に災いが及ばないよう願ってこれを贈るとされます。 人形(ひとがた)としての役目を持つもので、大変注目されます。 全国的に見てみると、雛の節句の日には、女児に限らず大人たちも仕事を休み、野山や海川の辺りで終日を過していたとする所が多くあります。 ヒナオクリとかナガシビナといって、人形(ひとがた)などの形代(かたしろ、人の霊を宿すもの)に穢(けが)れを負わせて水に流すとする所も少なくありません。 かつて人々は、一年の節目節目に、日常とは異なる特別な時間を過ごし、身についてしまった災いのもとを捨て去り、生まれ変わって元気に過ごそうとしたと考えられます。 雛の節句には、女児の誕生と成長を祝うだけではない要素もあるようです。 4月3日は、住吉神社境内の粟嶋様(粟嶋神社)の祭り日でもあります。 粟嶋様は、病などの災いから女性を加護して下さる神様とされます。 安産や良縁を祈願してのお参りも多いと聞きます。 (160215寄稿 清水) #
by hagihaku
| 2022-09-07 14:11
| くらしのやかたより
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